徳川幕府の新時代を築いた幼齢の4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)といった偉大な先祖の威光から脱却するべく、政治手腕を振るいましたが、どのような素顔を持っていたのでしょうか。
悠久の歴史を誇る日本の伝統は、確固たる継承者がその手腕を発揮したことで成り立っていると言え、徳川時代の安定をもたらした中核的な政権は、日本の史実に大きな足跡を残しました。
生まれながらにして、偉大な父親の背中を追うことになりながらも、4代将軍として任務を全うした徳川家綱の政治的指導力。また、「武断政治」(ぶだんせいじ:武力を背景にした専制政治)から「文治政治」(ぶんちせいじ:武力によらず、礼儀や法令による政治)への革新は、どのような判断で行なわれたのかに迫ります。
徳川家綱
「徳川家」(とくがわけ)が築いた盤石な統治機能は、始祖である「徳川家康」(とくがわいえやす)がそのすべてを取り仕切っていました。
後継者の2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)もまた、戦国時代の名残をとどめる油断のならない政治情勢を汲みながら天下を支配しています。
それら3代の将軍は大義名分のもと、容赦のない武力と圧政で世の中を鎮静させていたのです。
「織田信長」(おだのぶなが)、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)と、紆余曲折を経て天下を掴み取った徳川家康からすれば、軽々しく統治者が入れ替わるような事態を避けたいと思うのも無理はありません。
苦心を重ねて軌道に乗せた統治機能を、世が続く限り延ばしたいと願うのは統治者であれば当然であり、実際に徳川家康から徳川家光の時代までは、武力による権謀(けんぼう:臨機応変なはかりごと)や強圧的な政治手法で、各藩への締め付けが厳しく執り行なわれました。少しでも不穏な空気が漂うような不義を行なえば、たちまちにして御家の取り潰しに遭ったのです。
それだけ徳川3代の将軍が、突出して隙のない勢力を維持していたと言うことができ、3代までは絶対的な力を見せ付ける「徳川宗家」(とくがわそうけ)の威光で保たれた政権と定義することができます。
「徳川家綱」(とくがわいえつな)は、有無を言わせぬ権力で治世する徳川家光の後ろ姿を常に窺っていました。そうしたなかで、権力の誇示を前面に押し出す手法の限界も感じていたのだと考えられます。
1651年(慶安4年)、権勢を誇った徳川家光が48歳で病没。徳川家綱は、わずか10歳で後継者となりました。実父である徳川家光の急逝は、幼い徳川家綱に不安を与えることになります。
それでも、生まれながらにして次期将軍の付託(ふたく:頼んで任せること)を受けることが決まっていた徳川家綱の覚悟は、父親の魂を失うことなく政権を安定させていったのです。
先父(せんぷ:亡くなった父親)の徳川家光は、激高型で直情的な性格であり、取り巻きの側近達による細心の配慮が欠かせない統治者でした。組織運営の一部には、殺伐とした雰囲気があったとの史実も残っています。
しかし、徳川家綱は武力や威圧で民を縛り、家臣を押さえ付ける政治手法には先がないことを見越しており、徳川家光の意向は踏まえつつも有能な側近を重用するなど、よりやわらかい政権の運営へと路線転換を図るのです。幕府の諸制度を徐々に整備し、のちに「3大美事」(さんだいびじ)と呼ばれる施策を打ち出しました。
「武断政治」(ぶだんせいじ:武力を背景にした専制政治)から「文治政治」(ぶんちせいじ:武力によらず、礼儀や法令による政治)への転換を象徴するような3大美事は、それまでの強圧的な手法を廃し、各藩の大名へ一定の配慮を行なう施策で、年代順に記載すると下記の通りです。
1651年(慶安4年) | 末期養子(まつごようし)禁止の緩和 |
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1663年(寛文3年) | 殉死(じゅんし)の禁止 |
1665年(寛文5年) | 大名証人の廃止 |
これらの改革は、徳川家光の異母弟であり、大政参与(たいせいさんよ:将軍を補佐し、幕政の重要な課題に関与する臨時職)の「保科正之」(ほしなまさゆき)が主導して行なわれました。
しかしこの制度は、危篤状態に陥った当主の意志の確認が困難であることや、家臣などが当主を手に掛け、自分達に都合の良い人物にすげ替えるといった不正が行なわれることを危惧し、江戸幕府によって禁じられていたのです。幕府としては、末期養子を禁止することで大名の勢力を削ぎ、統制を強めることもできました。
幕府による強圧的な統制は、支配体制の確立していない江戸時代初期には著しく、嫡子がいないため取り潰しに遭う大名家が続出。幕藩体制(ばくはんたいせい:江戸幕府の支配下にありながら、独立の領地を持つ諸藩を統治する政治的体制)の足場を固めるために一役買う一方、取り潰された大名家に仕えていた武士は浪人とならざるを得ず、社会不安が増大することとなります。
こうした不安が不満となり起こったのが、1651年(慶安4年)の「慶安の変」(けいあんのへん)。優秀な軍学者であった「由井正雪」(ゆいしょうせつ)や、武士の「丸橋忠弥」(まるばしちゅうや)らが首謀者となり、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて決起した事件です。結果的には、内部からの密告により計画が露見。由井正雪は役人に取り囲まれて自害し、丸橋忠弥は捕らえられて死罪となります。
由井正雪らの決起は不発に終わりましたが、この事件を教訓として、いくつかの条件付きながら末期養子の禁止は緩和され、浪人救済のための施策にも力が入れられるようになりました。
江戸時代には、戦国時代のように戦死する状況が少なくなったため、主君が病死など自然死した場合でも、家臣が忠誠心を示すために殉死することがありました。殉死は、武士らしい美徳とされたのです。
1663年(寛文3年)に、殉死は「不義無益」(ふぎむえき:人の道に外れ、益もない)であるとして、その禁止が口頭伝達されました。これは、殉死によって優秀な人材が失われることを防ぐ目的があり、家臣は主君個人に仕えるのではなく、「主君の家」に仕えるべきであると言う新しい時代の主従関係を示しています。
なお、徳川家綱没後の1683年(天和3年)、「殉死の禁止」は「末期養子禁止の緩和」と共に、「武家諸法度」(ぶけしょはっと:江戸幕府が諸大名を統制するために定めた基本法)に加えられ、本格的に施行されました。
大名が幕府へ反旗を翻すのを抑止するための人質ですが、下克上の世の中では、大名の妻子のみを人質としても、下克上が起きて家臣が大名に成り代わってしまえば人質の価値がなくなるため、重臣の身内からも人質を取る必要がありました。
しかし、幕藩体制が安定した時代には、大名家で下克上が発生する可能性がなくなり、保科正之の提言によって、1665年(寛文5年)に大名証人制度の廃止が決定。武力に頼らない政策への転換がさらに進みます。
徳川家綱が「穏健派将軍」(おんけんはしょうぐん)と言われるようになった理由は、文治政治を目指した政策だけではありません。幼くして担がれた繊細な将軍は、家柄や家禄にこだわらず、人々の心情に寄り添ってきたと伝えられています。それは、いくつかの逸話として残されました。
遠島先のひとつ 八丈島
まだ徳川家光が健在だった頃、徳川家綱は側に仕える家臣から、遠島(えんとう:江戸時代の刑罰のひとつ)になった罪人(ざいにん)の話を聞きます。
徳川家綱は、その者達は何を食べているのだろうかと不思議がりました。
当時、流罪人には決まった食糧の配給などはなく、着の身着のままで餓死する者も少なくなかったのです。
何も答えられなかった家臣達に対し、徳川家綱は「流罪[るざい]に処して命を助けたにもかかわらず、なぜ食糧を与えないのか」と問います。それを聞いた徳川家光は喜び、確かに遠島にして命を助けたならば食糧の世話もするべきであるとし、今後は流罪人に対しても一定の食糧を与えるよう家臣に命じました。
我が子の善政を思わせる利発な発言に感心した徳川家光は、この命令を徳川家綱の最初の施策とするよう併せて申し付けたのです。
若い徳川家綱の、懐の大きさを表す逸話もあります。
あるとき徳川家綱は、庭にある大きな石を撤去するように、重臣の「酒井忠勝」(さかいただかつ)に命じました。竹刀を振るなど剣術の稽古の邪魔になるからとの理由だったのですが、酒井忠勝は「石を外へ出すためには、土塁や塀を壊さなくてはならないため、勘弁して下さい。」と告げます。そこで、「知恵伊豆」(ちえいず)として知られる「松平信綱」(まつだいらのぶつな)が、土を掘って石を埋めてはどうかと提案。
ところが酒井忠勝は、若い天下人が思いのままに政務を行なえば、我儘を通り越して暴君となり、民をないがしろにすることは必定であると説きました。政治のことわりは、できないことをできないとはっきり諭すことが大切だと示し、松平信綱を感服させたのです。
先代の徳川家光であれば、このような家臣の進言を受け入れることなく、一刀両断に成敗していたとしてもおかしくはありません。そして、そんな処分が許される時代でもありました。徳川家綱の治世には政権が安定し、どっしり構えた政権運営が常態化したからこそ、強権的ではない采配が可能になったと言えます。
明暦の大火
徳川家綱にとって最大の危機とも言える災害が、1657年(明暦3年)1月18日に起こりました。
「明暦の大火」(めいれきのたいか)です。
本郷(ほんごう:現在の東京都文京区本郷)から出火した火事は瞬く間に江戸中に広がり、3日間燃え続けて江戸のおよそ6割が焼失。
死亡者は10万人を超えるほどだったと言われています。
被害は「江戸城」(えどじょう)にも及び、天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸が焼け落ち、かろうじて西の丸だけが無事でした。このときは、徳川家綱も西の丸に避難しています。
この大火災の避難対応から、鎮火後の被災者救済、復興事業まで、陣頭指揮を執ったのが保科正之です。火災直後の救済処置として、まず粥の炊き出しが行なわれ、これは当初の7日間からさらに延長されました。
続いて、家を失った江戸町民に総額16万両の救助金を支給。「そんなことをすれば幕府の蔵がカラになってしまう」と言う反対意見に対して、保科正之は「今使わなければ、幕府の貯蓄はないも同然だ」と一喝したとのこと。
さらに、物価を安定させるために米を確保し、価格の上限を決定。また、「参勤交代」(さんきんこうたい)で江戸を訪れていた諸大名は帰国させ、国許にいる大名には、江戸へ来る必要はないと通達しました。家臣を合わせると膨大な人数になる大名一行を減らすことで、米の需要を減らし、値上がりを抑える目的があったのです。
保科正之公像
さらに保科正之は、江戸を災害に強い都市へと改造するため、道幅を広げ、初めて隅田川に両国橋を設置。
これらの施策は、攻めにくい都市作りを目指した戦国時代の価値観とは、正反対の町の姿を誕生させることになりました。
それは、江戸城の復旧に関しても例外ではなく、焼け落ちた本丸や二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されなかったのです。
すでに守りの要でもなく、遠くを眺めるためだけの天守に資金を費やすべきではないと言うのが保科正之の考え方でした。「今のような大変なときに天守を再建するのは、庶民の迷惑になる」とまで言い切ったとの記録が残っています。
天守は、将軍の権威と権力の象徴であり、その再建が最優先で行なわれてもおかしくはありません。保科正之はその常識を否定し、江戸の町の復興を第一に取り組んだということです。
復興の陣頭指揮を執ったのは保科正之でしたが、もちろんそこには徳川家綱の意向が活かされていました。幕府の権威や、これまでの強権的な価値観にとらわれない柔軟性もまた、庶民の命や生活を重視した徳川家綱の理念の表れと言えます。徳川家綱の、平和な世の中にふさわしい穏健な政策が、やがて徳川政権の安定的な継続につながっていくのです。
徳川家綱の正室である「伏見浅宮顕子」(ふしみあさのみやあきこ)には実子がありませんでした。側室との間にも子どもがなく、加えて徳川家綱自身、生まれつき線が細く病弱であったため、30代半ばを迎える頃には、世継ぎの問題が憂慮されていたと言います。
徳川綱吉
1680年(延宝8年)5月初旬、徳川家綱は病に倒れ危篤状態に。
そこで、重臣の「堀田正俊」(ほったまさとし)が勧める異母弟の「館林藩」(たてばやしはん)藩主「松平綱吉」(まつだいらつなよし)、のちの5代将軍となる「徳川綱吉」(とくがわつなよし)を養子に迎えて、将軍の嫡子とします。
それまで将軍の跡継ぎは、直系の長男と決まっていました。しかし徳川政権は、4代の徳川家綱をもって直系嫡子による世襲が崩れたことになります。
徳川家綱は、松平綱吉を養子に迎えたのちの5月8日に逝去。享年40歳でした。
自らの直系の血族が途絶えるとの憂慮があったからこそ、徳川家綱は人と人がより密接に連携し合う世の中を構築したいと願っていたのではないかと考えられています。徳川政権が、265年もの長きに亘って存続した大きな理由は、徳川家綱が示したような変革を恐れない柔軟性と、権威よりも人々の暮らしを重要視した政策にあると言えるのです。