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安土桃山時代
かとうきよまさ しょじょう 加藤清正 書状 /ホームメイト

本状は、「豊臣秀吉」の家臣である肥後国・熊本藩(現在の熊本県)初代藩主「加藤清正」(かとうきよまさ)が、「井那津因幡守」(いなづいなばのかみ)宛に発給した書状です。
文中にある「修理殿」(しゅりどの)は、日向国・飫肥藩(おびはん:現在の宮崎県)2代藩主「伊東祐慶」(いとうすけのり)のこと。本状において加藤清正は、伊東祐慶より親しい付き合いがしたいとの申し出があったことを聞き伊東祐慶の「家老衆」であった井那津因幡守に、挨拶代わりとしてこの書状を送った旨を記しています。なお、井那津因幡守は「日向伊東氏」の家臣であった「稲津氏」(いなづし)であったと推測されているのです。
伊東祐慶は、父「伊東祐兵」(いとうすけたけ/すけたか)が1600年(慶長5年)に亡くなると日向伊東氏13代当主となり、父の所領を継いで「修理大夫」(しゅりのだいぶ)に任じられていました。肥後国を本領としていた加藤清正にとって、隣国の日向国を支配していた伊東祐慶は密接な関係を築くべき存在であったのです。
そのため加藤清正は、本状を送ることで伊東祐慶に敵意がないことを示そうとしていたと考えられ、本状の追伸には書状の証しとして「小袖」(こそで)を2つ送ったことも書かれています。