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安土桃山時代
たけだかつより しょじょう(おかべじろううえもんのじょうあて) 武田勝頼 書状(岡部次郎右衛門尉宛) /ホームメイト

1573年(元亀4年)4月12日、病死した武田信玄の家督を継ぎ、第20代当主となった武田勝頼。同年の「第一次高天神城(たかてんじんじょう)の戦い」で、生前の武田信玄もついに落とせなかった徳川の高天神城を陥落させて名を上げます。
しかし、1575年(天正3年)の「長篠の戦い」では織田・徳川連合軍に大敗。以降、勢力は衰え、1582年(天正10年)に織田信長と徳川家康によって領地の甲州に侵攻されて自害に追い詰められるまで、武田勝頼の苦難は続きました。
本状は、徳川家康が高天神城の奪回を図った1580年(天正8年)の「第二次高天神城の戦い」の中、武田勝頼から家臣の岡部次郎右衛門(おかべ じろうえもん)に宛てられた書状です。ほとんど焼けてしまった城内を、武田家宿老の山縣正景(やまがた まさかげ)の催促により次郎右衛門が早々に再建したことを讃え、3種の酒を贈る旨が記されています。岡部次郎右衛門は、岡部正綱(おかべ まさつな)の名で知られる戦国武将。幼くして人質となった徳川家康の日常生活の面倒をみていた人物です。
元々今川氏の家臣でしたが、武田信玄が駿河国に侵攻した際、果敢に抵抗した武勇が認められ、今川氏の滅亡後は武田氏の家臣となりました。「第二次高天神城の戦い」のあと、武田勝頼に失望した岡部正綱は浪人となるも、先述の縁から徳川家康が徳川家へ招き入れ、徳川家の重臣として甲斐国への侵攻などに貢献しています。
