江戸時代の重要用語

渡辺崋山 
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「渡辺崋山」(わたなべかざん)は、江戸時代の画家で蘭学者(らんがくしゃ:オランダを通じて日本に入ってきた西洋の学問や技術の研究者)です。山水花鳥画や肖像画で、独自の画風を確立したことで知られます。一方、田原藩(たはらはん:現在の愛知県田原市)藩士として、藩政改革にも貢献しました。しかし西洋への関心から蘭学者となり、開国論を唱えて幕府の鎖国政策を批判。「蛮社の獄」(ばんしゃのごく:西洋の学問を学ぶ者達が弾圧され、投獄された事件)で罰せられ、のちに自刃しました。渡辺崋山の代表的な絵画作品としては、国宝の「鷹見泉石像」(たかみせんせきぞう)があります。

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「渡辺崋山」(わたなべかざん)は、江戸時代の画家で蘭学者(らんがくしゃ:オランダを通じて日本に入ってきた西洋の学問や技術の研究者)です。山水花鳥画や肖像画で、独自の画風を確立したことで知られます。一方、田原藩(たはらはん:現在の愛知県田原市)藩士として、藩政改革にも貢献しました。しかし西洋への関心から蘭学者となり、開国論を唱えて幕府の鎖国政策を批判。「蛮社の獄」(ばんしゃのごく:西洋の学問を学ぶ者達が弾圧され、投獄された事件)で罰せられ、のちに自刃しました。渡辺崋山の代表的な絵画作品としては、国宝の「鷹見泉石像」(たかみせんせきぞう)があります。

渡辺崋山の生涯

絵を描いて家計を助けた少年時代

渡辺崋山

渡辺崋山

渡辺崋山は1793年(寛政5年)10月20日、田原藩藩士「渡辺定通」(わたなべさだみち)の長男として、江戸の藩屋敷で誕生。以来、ほとんどの時間を江戸で過ごします。田原藩の財政難に加え、父には持病があり、一家11人の生活は極貧でした。

渡辺崋山は8歳になると、田原藩主の子の伽役(とぎやく:話や遊びの相手)として仕えますが、暮らしは楽にならず、奉公に出された幼い弟・妹を亡くすという経験もしています。

それでも将来への志を立て、13歳のときには、江戸幕府が奨励していた儒学(朱子学)を儒学者「鷹見星皐」(たかみせいこう)に入門して学び始めます。

10代後半になると、田原藩の江戸屋敷に仕えるかたわら、得意な絵で家計を助けようと、灯籠(とうろう)の絵を描く内職もしました。

絵の才能を開花させ儒学も学ぶ

渡辺崋山が本格的に絵を学ぶことを決意し、絵師「白川芝山」(しらかわしざん)に入門したのは16歳のとき。ここで、鷹見星皐から「華山」の画号を授けられます。

しかし白川芝山に謝礼が払えず、ほどなく破門。その後、田原藩主のつてをたどり、17歳で絵師「金子金陵」(かねこきんりょう)、その師匠である「谷文晁」(たにぶんちょう)らに弟子入りすると、ようやく渡辺崋山の才能が開花します。20代前半には、絵師として広く知られた存在となりました。

その一方で、学問の習得にも、ますます励むようになります。19歳のときには、江戸幕府が幕臣とその子弟のために築いた、学問機関「昌平坂学問所」(しょうへいざかがくもんじょ)に通い、朱子学者の「佐藤一斎」(さとういっさい)から学びました。

蘭学者と交流し海外事情を知る

画家としての渡辺崋山は、西洋画の技法も取り入れて独自の画風を確立し、34歳の頃、画号の「華山」を「崋山」に変更しています。

一方で西洋への関心は、絵画以外にも向けられました。海外事情を知るため、長崎で「シーボルト」(ドイツ人医師・植物学者)に学んだ蘭学者の「高野長英」(たかのちょうえい)、「小関三英」(こせきさんえい)らと交流。オランダの書物を翻訳し、医学・自然科学の知識を授かり、海外の事情通となったのです。

そして高野長英らとともに、蘭学者が集まる「尚歯会」(しょうしかい)の中心メンバーとなり、政治や海防問題について議論を重ねました。こうした交流を深めるほど、西洋の学問が優れていることを痛感し、江戸幕府の鎖国政策に疑問を抱き、「日本は開国すべき」と考えるようになっていったのです。

モリソン号事件で江戸幕府を批判

1838年(天保9年)、「モリソン号事件」が発生。日本人漂流民7人を乗せたアメリカの商船モリソン号を、「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい:交易を認めた国以外の船が日本近海に現れた場合、砲撃せよと命じた法律)に則って、浦賀奉行所(うらがぶぎょうしょ:現在の神奈川県横須賀市にあった奉行所)が砲撃したのです。

渡辺崋山、高野長英はこの事件に注目し、「鎖国政策は、外国が戦争を仕掛けてくる口実になりかねない」と江戸幕府を批判。これによって、1839年(天保10年)、江戸幕府から囚われてしまいました(蛮社の獄)。囚われた理由は、海外の事情を説きモリソン号事件を批判した未発表の著書「慎機論」(しんきろん)が家宅捜索で見つかったことでした。

絵を描き続けたことを非難され自刃へ

蛮社の獄で渡辺崋山は、田原藩での永蟄居(えいちっきょ:自宅の部屋から一生出られない刑罰)を命じられます。弟子達は一家の生活費を心配し、渡辺崋山に絵を描かせ、自分達で販売する会を開催。ところが、「これでは謹慎になっていない」との批判が起こり、「田原藩主が江戸幕府将軍から叱責されるだろう」とのデマが流れました。

渡辺崋山は田原藩主に迷惑をかけてはならないと、1841年(天保12年)11月23日、自らの屋敷の納屋で切腹し、一生を終えたのです。田原藩主への忠義と家族への孝行を貫いた渡辺崋山でしたが、最後に残した絶筆の書は、「不忠不孝渡邉登」(ふちゅうふこうわたなべのぼり:登は渡辺崋山の通称)でした。

自刃した場所は、「池ノ原公園」(いけのはらこうえん:愛知県田原市)。墓は「城宝寺」(じょうほうじ:愛知県田原市)に残されています。

渡辺崋山の事績

山水花鳥画と肖像画で独自の画風を確立

鷹見泉石像

鷹見泉石像

渡辺崋山は、師匠の金子金陵・谷文晁から、「南画」(なんが)と呼ばれる山水画や花鳥画を習います。しかし、それにとどまらず、洋画の手法である遠近法なども取り入れ、独自の画風を生み出しました。

代表作に、外国船が迫り来る三浦半島(みうらはんとう:神奈川県横須賀市)を描いたと言われる「千山万水図」(せんざんばんすいず)などがあります。

また、肖像画にも、西洋画の陰影などの技法を取り入れました。国宝の「鷹見泉石像」、「佐藤一斎像」(さいとういっさいぞう)が代表作。弟子には「椿椿山」(つばきちんざん)、「福田半香」(ふくだはんこう)などがいます。

藩政改革で飢饉対策や海防に力を入れる

画家として成功した一方、渡辺崋山は田原藩主への強い忠誠心を持つ藩士でした。1832年(天保3年)、40歳のとき、田原藩の江戸詰家老(えどつめがろう:江戸に常駐する田原藩家臣の最高職)となり、藩政改革に力を尽くします。なかでも最大の施策が「報民倉」(ほうみんそう)と名付けた食糧備蓄用倉庫の設置でした。

これにより、1836~1837年(天保7~8年)に起きた「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)の際、田原藩では1人の餓死者も出なかったのです。この功績で、1838年(天保9年)、全国で田原藩だけが江戸幕府より表彰されています。

他にも農学者を招いて農業技術改革に取り組み、さらに海防事務掛(かいぼうじむがかり)として海防に力を入れるなど、藩の人々のために尽くしました。

渡辺崋山にまつわる逸話

志を奮い立たせた日本橋での事件

12歳のある日、渡辺崋山は父の薬を買いに出掛け、日本橋を通り掛かりました。すると岡山藩(おかやまはん:現在の岡山県岡山市)藩主・池田氏の行列と出くわし、言いがかりを付けられ、叩きのめされてしまいます。

大名と貧しい武士の子という身分の違いで、そのような目に遭ったという悔しい経験が、のちに学問と絵の修行に邁進(まいしん)するきっかけになったのです。これは渡辺崋山自身が書き残しています。

幼少期から欠かさなかったスケッチ

子どもの頃から絵が好きだった渡辺崋山は、つねにスケッチできるよう紙と絵筆を持ち歩き、その習慣は年老いてからも変わりませんでした。

そうしたスケッチのなかから、日本各地で旅先の風景を描き彩色した「四州真景図」(ししゅうしんけいず)、金魚売りや寺子屋など江戸の庶民の日常を描いた「一掃百態」(いっそうひゃくたい)といった名作が誕生し、後年になって高く評価されています。

【東京国立博物館「研究情報アーカイブズ」より】

  • 渡辺崋山「鷹見泉石像」

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