「徳川光友」(とくがわみつとも)は江戸時代前期に生まれ、尾張藩(現在の愛知県名古屋市)2代藩主となった人物です。「徳川家康」を祖父に持ち、正室には江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の娘「千代姫」(ちよひめ)を迎えています。また、多彩な才能を持っていたことでも知られ、武道・書道や茶道などでその腕前を発揮。さらに徳川光友は、尾張藩の藩政改革に尽力し、諸制度の整備を行っています。徳川光友がどのような人生を歩んだのか、その一端を見ていきましょう。
徳川光友は父・徳川義直同様、武芸や茶道・書道において優れた才能を持っていました。書道では111代「後西天皇」(ごさいてんのう)、「近衛信尋」(このえのぶひろ:江戸時代前期の公卿)とともに当時における「三筆」(さんぴつ:書において優れた3人)に数えられることもあります。また、剣術は尾張藩剣術指南役の「柳生厳包」(やぎゅうとしかね)より、柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)を学びました。
1647年(正保4年)には、江戸幕府3代将軍・徳川家光の娘・千代姫と結婚。1650年(慶安3年)には父・徳川義直の死去に伴い家督を継承し、尾張藩2代藩主に就任します。1651年(慶安4年)には徳川義直の菩提寺として「建中寺」(けんちゅうじ:愛知県名古屋市東区)を建立。1652年(承応元年)には、嫡男「徳川綱誠」(とくがわつなのぶ)が誕生しています。
徳川光友は尾張藩主となった直後、キリスト教徒に対して寛大な姿勢でしたが、「濃尾崩れ」(のうびくずれ)以降、尾張藩内ではキリスト教徒を検挙する方針に転換します。この濃尾崩れとは、1661年(寛文元年)ごろから美濃国(現在の岐阜県南部)、尾張国内で相次いでキリスト教徒が見付かった事件。江戸幕府の指示により、摘発された約1,300人ものキリスト教徒が処刑されました。
尾張藩
尾張藩の藩政において、徳川光友は「寺社奉行」(じしゃぶぎょう:寺社を統括する機関)や「評定所」(ひょうじょうしょ:訴訟を行う司法機関)を設置し、政治制度を整備。また、火事への対策や林業の推進、軍事力強化などにも努め、尾張藩の基礎を固めました。
1681年(天和元年)には、徳川光友の次男「松平義行」(まつだいらよしゆき)に、1683年(天和3年)には三男「松平義昌」(まつだいらよしまさ)にそれぞれ領地が与えられ、尾張徳川家一門が成立。1693年(元禄6年)、嫡男・徳川綱誠へ家督を相続するも、1699年(元禄12年)に徳川綱誠が亡くなってしまい、孫の「徳川吉通」(とくがわよしみち)が尾張藩4代藩主として就任します。そして、翌1700年(元禄13年)に、徳川光友も享年76でこの世を去るのです。