2024年(令和6年)、10,000円札の顔が「福沢諭吉」(ふくざわゆきち)から「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)へ交代します。渋沢栄一は91年間という長い生涯の中で、銀行・鉄道・製紙など500にのぼる企業設立にかかわり、600もの福祉・教育機関を支援。日本資本主義の父と言われた人物です。農家に生まれながら「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外国を排斥するという思想)の志士(しし:志を持った武士)となり、やがて江戸幕府将軍に仕える幕臣へ。明治維新後は、大蔵省の役人として国づくりに邁進。民間人となってからは、日本初の銀行を創立するなど、実業家としての道を歩みます。近代日本経済の礎を築いた渋沢栄一の、波乱万丈の人生を追ってみましょう。
渋沢栄一
渋沢栄一は1840年(天保11年)、武蔵国血洗島(むさしのくにちあらいじま:現在の埼玉県深谷市)で誕生。渋沢家は、稲作・養蚕業の他、藍染(あいぞめ)販売で財産を築きました。
教育熱心だった父「渋沢一郎右衛門」(しぶさわいちろうえもん」は、渋沢栄一に5歳から漢文を、7歳からは論語(ろんご)を学ばせます。
論語とは、古代中国の思想家「孔子」(こうし)の言葉をまとめた儒教の代表的経典。宗教よりも道徳・思想に近く、礼儀・親孝行、他者への思いやり、学問の大切さなどを説いています。論語は、のちに渋沢栄一が実業家として歩むうえでの指針となりました。
1853年(嘉永6年)、13歳になった渋沢栄一は、父・渋沢一郎右衛門に代わって、たで藍葉(あいば:藍染の原料)の買い付けに出掛けました。農家の人々は渋沢栄一を子どもだと見下しましたが、渋沢栄一が藍葉の品質を見極める目を持ち、価格相場を的確につかんでいることに驚愕。渋沢栄一は勉学に励む一方、父・渋沢一郎右衛門の仕事をよく観察していたのです。
また、渋沢栄一が16歳のとき、代官(だいかん:江戸幕府直轄領の領主)から父・渋沢一郎右衛門が呼び出されました。風邪を引いていた父の代わりに渋沢栄一が出頭したところ、年貢とは別に代官の娘の嫁入り金500両を用意せよと命令。500両は、現在の1,000万円に相当する大金です。渋沢栄一は「私は父の代理ですから、持ち帰って相談します」と即答を拒んだところ、代官は「口答えするな」と威圧しますが、渋沢栄一は決して首を縦に振りません。
このとき、渋沢栄一の心に芽生えたのは、権力に対する怒りと、江戸幕府の古い体制を変えたいという思いでした。
渋沢栄一が青年期を迎える頃、アメリカから黒船が来航する一方で、尊王攘夷、倒幕運動の機運が高まっていました。
21歳になった渋沢栄一は、従兄弟達と倒幕計画を立てますが、京都で尊王攘夷派が数多く暗殺されたと聞き、実行直前で思いとどまります。しかし、この計画によって渋沢栄一は江戸幕府から追われる身に。この危機を救ったのは、以前、江戸へ遊学に出たとき親交があった「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)でした。
「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜[とくがわよしのぶ])の重臣だった平岡円四郎は、渋沢栄一を一橋家の家来に推薦。倒幕を狙っていた自分が、江戸幕府の家臣になるのは筋が通らないと思いつつ、社会を変えるには政治にかかわる道もあると判断。渋沢栄一は一橋家の家臣となり、人材登用・会計などの重要な仕事で活躍しました。
1866年(慶応2年)、一橋慶喜が徳川慶喜と改名し、江戸幕府15代将軍に就任。翌1867年(慶応3年)にフランスの首都パリで開催された国際博覧会の「パリ万博」へ、徳川慶喜の弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)が江戸幕府将軍の名代(みょうだい:代理)として派遣された際、渋沢栄一も会計係として同行。パリで上下水道・蒸気機関車・電灯などの先進的な産業技術に触れます。なかでも渋沢栄一が感銘を受けたのは、株式・銀行といった日本にはない経済の仕組みでした。
渋沢栄一らが、パリ滞在中に日本で大事件が起こります。徳川慶喜が「大政奉還」(たいせいほうかん:江戸幕府が政権を朝廷へ返上すること)を行い、政権が江戸幕府から明治政府へと移ったのです。
帰国後、駿府藩(すんぷはん:現在の静岡県静岡市)で謹慎中の徳川慶喜を訪ねた渋沢栄一は、財政危機に陥っていた駿府藩の立て直しを頼まれ、見事期待に応えます。その実績が買われ、渋沢栄一は明治政府の要請で大蔵省の官僚となりました。
税制・貨幣制度・郵便制度・鉄道の敷設などに力を発揮した渋沢栄一は、大蔵省のナンバー2まで登り詰めますが、財政改革における主張が受け入れられず辞任。これを機に、33歳で民間の実業界へ踏み出します。
渋沢栄一は、大蔵省在任中から銀行の設立に取り組んでいました。経済を活性化するのは民間企業であり、民間企業を作るため、まとまった資金を提供するのが銀行。
渋沢栄一は日本初の銀行「第一国立銀行」(だいいちこくりつぎんこう)を設立し、最高責任者である総監役となりました。その後、日本各地に153もの銀行が作られますが、渋沢栄一は相談役として銀行経営に助言したり、明治政府へ様々な要望書を出したりしています。
さらに渋沢栄一は、各地で鉄道会社を興し、暮らしを支えるガス・電力会社の設立にかかわるなど、インフラ整備を推進。また紡績・製紙・ビールなどのメーカーや、明治時代以降盛んになった海上輸送の事故に備え、保険会社の設立にも力を注ぎました。多くの人々から資金を集めて、会社経営に活かす株式制度を日本へ普及させたのもこの頃です。
渋沢栄一は、自分の財産を作ることに関心がなく、かかわった会社が軌道に乗ると経営を他人に譲り、自ら身を引きました。約500もの会社設立を主導したあと、76歳で実業界を引退。
以降は、以前からも取り組んできた福祉・医療・教育といった社会貢献に尽力します。病人・孤児・老人・障害者などを保護する「養育院」(よういくいん)、「日本女子大学校」(にほんじょしだいがっこう:現在の日本女子大学)など、渋沢栄一がかかわった事業は600以上を数えました。
1931年(昭和6年)、渋沢栄一は91歳で死去。かつての主君・徳川慶喜と同じ谷中(やなか:東京都台東区)の墓地に眠っています。
渋沢栄一の代表的著書と言えば「論語と算盤」(ろんごとそろばん)。論語(道徳)と算盤(経済)は一見かけ離れているように思われますが、渋沢栄一はこの書の中で「商売にこそ道徳が必要」と主張しました。自分の利益だけ追求しても経済は発展せず、富を社会に還元してこそ永続性が生まれると言うのです。こうした渋沢栄一の経営哲学が共感を呼び、現在まで多くの人に愛読されています。
1927年(昭和2年)、悪化していく日米関係の改善を目的に、アメリカから日本の子ども達へ約12,000体の人形が贈られました。渋沢栄一はこの企画を全面支援し、日本側の受け入れ団体「日本国際児童親善会」(にほんこくさいじどうしんぜんかい)を設立。船で日本に到着したアメリカ人形は、渋沢栄一とともに各地を回り、「青い目の人形」と親しまれます。日本からは、お返しに着物を着た日本人形をアメリカへ贈り、民間外交を展開したのです。