「大久保利通」(おおくぼとしみち)は、幕末から明治時代における激動の時期を駆け抜けた政治家の1人です。薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)の出身で、幼馴染に3歳年上の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)がおり、ともに11代薩摩藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)に登用され、「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び海外諸国を排除する思想)を支持する若手藩士達のリーダーとして、倒幕に向け「薩長同盟」(さっちょうどうめい:薩摩藩と長州藩[ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市]の同盟)を締結するなど、頭角を現し始めます。明治維新後の1871年(明治4年)には「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)の副使も務め、帰国後に「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)を設立するなど、国内工業の近代化に寄与しました。大久保利通の生涯と語り継がれる逸話について、ご紹介します。
大久保利通
大久保利通は、1830年(文政13年)、薩摩藩鹿児島城下高麗町(こうらいちょう:現在の鹿児島県鹿児島市高麗町)に、下級藩士である「大久保利世」(おおくぼとしよ)の長男として誕生。
同郷に西郷隆盛や、「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう:のちの日本海軍大将)がおり、ともに学問を学んだ仲だと言われています。
1846年(弘化3年)から、薩摩藩の記録所の書役助(かきやくすけ:文書の草案作成・記録を行う事務職の補佐)として登用されますが、1850年(嘉永3年)の「お由羅騒動」(おゆらそうどう:薩摩藩主の座を巡ったお家騒動)に巻き込まれることに。
お由羅騒動により、大久保利通の父・大久保利世は務めていた職務を罷免(ひめん:職を辞させられること)され、遠島への島流しの刑に処されました。大久保利通本人も罷免され、謹慎処分を受けます。
このお由羅騒動は、島津斉彬が11代薩摩藩主になることで決着し、大久保利通は謹慎を解除。その後、大久保利通は西郷隆盛らと薩摩藩内組織「精忠組」(せいちゅうぐみ)を結成し、藩内の政治を改革すべく動き出すのです。
11代薩摩藩主・島津斉彬の死後、「島津久光」(しまづひさみつ:島津斉彬の異母弟)が権力を握り始めると、大久保利通はその側近として「公武合体運動」(こうぶがったいうんどう:朝廷の威を借りて江戸幕府を立て直そうとした活動)を推し進めていきました。
しかし、江戸幕府の力も弱体化し始め、島流しの刑が許されて復帰した西郷隆盛とともに、薩長同盟を締結。1866年(慶応2年)、江戸幕府より長州藩を征討(せいとう:服従しない者を討つこと)する命が薩摩藩に発されましたが、大久保利通ら薩摩藩は出兵を拒否。江戸幕府15代将軍の「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)との緊迫感が高まっていきました。
翌1867年(慶応3年)には、朝廷の倒幕派である「岩倉具視」(いわくらともみ)らと結託し、クーデターを敢行。徳川慶喜は朝廷へ政権を返上する「大政奉還」(たいせいほうかん)を行い、「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい:江戸幕府を廃し、天皇を主体とした明治政府の設立を宣言したもの)が発令。これにより江戸幕府はその座を追われ、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を経て、明治政府が樹立されました。
その後、大久保利通は参与(さんよ:明治政府の重職)に任命され、「版籍奉還」(はんせきほうかん:全国の藩が土地・人民を朝廷へ返還すること)や「廃藩置県」(はいはんちけん:藩制度を廃し府県制度の設置)に尽力し、明治政府の「中央集権体制」(ちゅうおうしゅうけんたいせい:権限・財源が中央政府に一元化されている形態)の確立を目指します。
1871年(明治4年)には大蔵卿(おおくらきょう:大蔵大臣に相当)に就任。「岩倉使節団」の副使として、「木戸孝允」(きどたかよし)や「伊藤博文」(いとうひろぶみ)らと欧米諸国を外遊しました。
大久保利通は欧米から帰国後、武力を持ってして李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)を開国させようとする「征韓論」(せいかんろん)に異を唱えて、盟友・西郷隆盛、「板垣退助」(いたがきたいすけ)らと対立。「明治六年政変」(めいじろくねんせいへん:征韓論の賛成派による政府首脳・官僚の大量辞職)によって、西郷隆盛を失脚させました。
これを機に、参議兼内務卿(ないむきょう:内務大臣に相当)として力を持った大久保利通は、「地租改正」(ちそかいせい:税制改革)や「殖産興業」(しょくさんこうぎょう:資本主義育成により近代化を目指した諸政策)の推進などの施策を推し進めます。
その後、明治政府に対して不満を抱く士族(しぞく:旧武士層)によって内乱が相次ぎ、1877年(明治10年)の「西南戦争」(せいなんせんそう)では、反乱軍の将となった西郷隆盛と対立。西郷隆盛は、この戦いで自害してしまいます。
その翌年1878年(明治11年)5月14日、「赤坂御所」(あかさかごしょ:東京都港区)へ向かう途中で、不平士族によって暗殺されました(紀尾井坂の変:きおいざかのへん)。
富岡製糸場
岩倉使節団の帰国後、大久保利通が内務卿を務める内務省が指揮を執るかたちで、殖産興業が推し進められました。当時、日本は列強諸国のように独立国家としての地盤を固めるべく、国家基盤の整備を急いでいたのです。
このときのスローガンであった「富国強兵」(ふこくきょうへい:経済力を発展させて軍事力の増強を図る政策)のためには、殖産興業が必要であり、西洋の先進的な技術を積極的に導入し、経済発展を目指しました。
大久保利通の殖産興業施策においては、資本の必要なものは官業(かんぎょう:国の事業)として始業し、のちに民間に払い下げる方針が採られ、なかでも造船・鉱山・港湾・鉄道・製糸・紡績・紡織などへ優先的に投資を行います。また、輸出産業の基幹となる生糸・茶の生産も、積極的に推し進めました。
殖産興業の代表的なものとして、富岡製糸場・「八幡製鉄所」(やはたせいてつじょ:福岡県北九州市)・「札幌農学校」(さっぽろのうがっこう:北海道札幌市)などがあり、現在へ繋がる産業がここに端を発していることが垣間見えます。
西郷隆盛
人生を賭して、幾度と渡り合った大久保利通と西郷隆盛との間には、多くの逸話が残されています。幼い頃は、加治屋町(かじやちょう:鹿児島県鹿児島市加治屋町)の藩校「造士館」(ぞうしかん)でともに学問を学んだ同志でした。
のちに、薩摩藩の藩政改革派「精忠組」として共闘しますが、岩倉使節団の外遊を終えて帰国後の1873年(明治6年)には、征韓論を巡って対立し、征韓論賛成派の西郷隆盛を失脚させると、大久保利通は政権を握ります。
1877年(明治10年)の西南戦争では、大久保利通が明治政府軍を指揮して再び西郷隆盛と対立。戦争に敗れた西郷隆盛の自害を聞いた大久保利通は、大変嘆き悲しんだと言われています。その後、西郷隆盛というリーダーを亡くし、より一層不平が高まっていた士族らによって大久保利通は暗殺されますが、このときに乗っていた馬車の中では、亡き西郷隆盛の生前の手紙を読んでいる最中だったと言われています。