松平家治
「松平家治」(まつだいらいえはる)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)の娘「亀姫」(かめひめ)と「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)の間に、次男として誕生。
1589年(天正17年)、当時駿府(すんぷ:現在の静岡県静岡市)にいた徳川家康の養子となり、親元を離れます。
翌年、徳川家康は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の命で関東へ移封(いほう:領地を移動すること)。松平家治は上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)7,000石を拝領しました。
しかし、1592年(天正20年)、わずか14歳の若さで死去。松平家治の生家・奥平家に対し、徳川家康から再び養子が所望されました。そこで、松平家治の末弟「鶴松丸」が養子に出されます。この鶴松丸が、のちに大政参与(たいせいさんよ:江戸幕府における臨時の最高職)となった「松平忠明」(まつだいらただあきら)でした。