於松(法光院)
「於松」(おまつ)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)の側室のひとりです。
院号(いんごう:戒名)が「法光院」(ほうこういん)であること以外は、出身・出没年の他、墓地などについても明らかにされていません。
「源流綜貫」(げんりゅうそうかん:各家の家系図を編纂した書物)によると、1582年(天正10年)、徳川家康の子「松平民部」(まつだいらみんぶ)を出産しています。
松平民部は、徳川家康の厄年に誕生したため、徳川家康の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)の養子へ出されたとされており、1614年(慶長19年)から行われた「大坂の冬の陣」(おおさかふゆのじん)において活躍。結城秀康の長男で、松平民部の甥「松平忠直」(まつだいらただなお)のもとで参戦したと言われています。そののち、越前国(えちぜんのくに:現在の福井県北東部)にて35歳で病死しました。