於牟須(正栄院)
「於牟須」(おむす)は、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)武田家(たけだけ)家臣「三井吉正」(みついよしまさ)の娘です。
武田氏が滅亡した1582年(天正10年)から、「徳川家康」(とくがわいえやす)の側室になります。
於牟須が側室となったとき、徳川家康はすでに41歳。しかし深い寵愛を受け、徳川家康の「駿府城」(静岡市葵区)時代のお気に入り「三人衆」(於牟須・阿茶局[あちゃのつぼね]・於阿茶局[おあちゃのつぼね])のひとりだったと言われています。
1592年(天正20年)、朝鮮出兵のため、徳川家康は肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県、長崎県)の「名護屋城」(なごやじょう:佐賀県唐津市)周辺へ本陣を構えます。於牟須も同行し本陣内で出産しますが、難産のために母子ともに亡くなったと言われています。院号(いんごう:戒名)は「正栄院」(せいえいいん)。
ちなみに徳川家康は当時、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に次ぐ権力者であり、その本陣跡は、名護屋城跡の北東にあったと確認されています。