旧街道は、日本の各地に整備されていた古来の道です。江戸幕府によって整備された「五街道」が有名ですが、それ以外にもたくさんの旧街道が日本各地に残存。今回は、かつて四国に整備されていた旧街道をご紹介します。四国と淡路島を繋ぐ役割も果たしていた「阿波五街道」と、愛媛の城下町を繋いだ「大洲街道」について、それぞれ詳しくご紹介します。
阿波五街道は、江戸時代に徳島藩(現在の徳島県と兵庫県淡路島)の藩主となった蜂須賀家(はちすかけ)によって整備された街道。
1585年(天正13年)に「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)が築城した「徳島城」(徳島県徳島市)を起点に、隣国の土佐国(現在の高知県)や伊予国(現在の愛媛県)、讃岐国(現在の香川県)などに繋がっていました。
三方を山に囲まれている地形のため、隣国への往来も困難だった阿波国(現在の徳島県)。徳島の城下町と阿波国内各地の往来をスムーズにしたのが、阿波五街道でした。
かつての阿波五街道は、今でも国道や県道として使われている道も多数あり、時代を経ても人々の交通の便を支えているのです。阿波五街道には、その名の通り5つの道がありました。詳しくご紹介します。
阿波五街道
「讃岐街道」は、徳島から讃岐国を繋いだ街道。徳島城・鷲の門を起点に佐古・蔵本・島田(すべて現在の徳島県徳島市)を経由し、大坂峠(現在の徳島県鳴門市)を越えて讃岐国馬宿(現在の香川県東かがわ市)に至る道のりです。途中の大寺(現在の徳島県板野郡)では、後述する「撫養街道」(むやかいどう)と交差しています。
讃岐街道が整備された当時は、旅行の自由が制限されていた時代。旅をするには身分証明書となる往来手形が必要で、特に国を跨ぐ際には厳しい検査を受けなければなりませんでした。
讃岐に出入国する人の検査を行っていたのが、讃岐国境にあった大坂村(現在の徳島県板野郡)の「大坂口御番所」(おおさかぐちごばんしょ)。この番所を通過するには通行許可書である通行手形が必要で、旅人は持ち物まで取り調べられました。
1644年(正保元年)に設置されて以降、1872年(明治5年)までの約230年間取り締まりを行っていた大坂口御番所。番所自体は取り壊されてしまいましたが、代々番所の役人を務めていた村瀬家の住居は「大坂口御番所跡」(徳島県板野郡)に今も残っています。
伊予街道は、吉野川の南側にあった約80kmの街道。吉野川を挟んで、撫養街道と並行していました。徳島城・鷲の門を起点に、上鮎喰(かみあくい :現在の徳島県徳島市)や州津の渡し、佐野(現在の徳島県三好市)などを経由して、伊予国との境に至ります。
伊予街道の川島(現在の徳島県吉野川市)や池田(現在の徳島県三好市)は、陸路と水路が交わる交通の要所。多くの商人や店が集まり、賑わいを見せていました。
大洲街道
松山城(愛媛県松山市)
松山城は、大洲街道の起点となった松山にある城。標高132mの勝山に建つ城で、ロープウェイ・リフトで登ることができます。
日本に12ヵ所しかない、天守が残っている城のひとつ。2006年(平成18年)には「日本の歴史公園100選」にも選ばれました。
大洲城
「大洲城」(愛媛県大洲市)は、大洲街道の終着点である大洲にある城。鎌倉時代に「宇都宮豊房」(うつのみやとよふさ)によって築城され、その後、築城の名手としても知られる「藤堂高虎」(とうどうたかとら)によって修築がなされました。
明治維新後、大部分の建築物が破却された大洲城。一部保存されていた天守閣も1888年(明治21年)に老朽化により解体されましたが、2004年(平成16年)に復元されました。
城跡一帯は愛媛県の指定史跡になっており、場内にある複数の建造物が国の重要文化財に指定されています。