「足利義澄」(あしかがよしずみ)は、室町幕府の第11代征夷大将軍です。前将軍である「足利義材」(あしかがよしき)は、第8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の正室で、夫の死後も強い影響力を保った「日野富子」(ひのとみこ)と不仲になり、クーデターで将軍職から追放されます。空席になった将軍職に足利義澄が就任しますが、諦めていなかった足利義材が軍勢を引き連れて京に戻り、今度は足利義澄が将軍職を追われるのです。幕臣の都合で飾り物の将軍にされ、前将軍に追われることになった足利義澄の人生を年表形式で振り返り、かかわりの強かった人物についてご紹介します。
「足利義澄」(あしかがよしずみ)は、実権を日野富子やその側近に握られたうえに、前将軍が復帰したために都を追われた不遇の将軍でしたが、その後の室町幕府の将軍は、すべて足利義澄の子孫達です。ここでは、足利義澄と家系図の繫がる足利家の人物をご紹介します。
足利義澄の家系図
「足利義維」(あしかがよしつな)は足利義澄の息子で、足利義材の養子。実父・足利義澄は足利義材に将軍を追われ、守護大名「六角高頼」(ろっかくたかより)のもとに身を寄せていました。
しかし、六角高頼が足利義材と通じているとの噂があり、足利義澄は子の足利義維を守護大名「細川澄元」(ほそかわすみもと)に預けます。のちに、息子がいなかった足利義材は、対立相手である足利義澄の子・足利義維を自身の養子としたのです。
足利義澄の死後、第12代征夷大将軍となったのは足利義澄の子で足利義維の異母兄弟「足利義晴」(あしかがよしはる)でした。しかし、足利義晴は管領(かんれい:将軍の補佐職)細川氏による同族の内乱に加わって敗北。勝利した「細川晴元」(ほそかわはるもと)は、次期将軍として足利義維を擁立したのです。
しかし、朝廷は足利義晴と良好な関係であったことから、足利義維を将軍に任命することはありませんでしたが、都の実質的な支配者は足利義維でした。足利義維は堺(現在の大阪府大阪市)に拠点を置いていたことから「堺公方」や「堺幕府」と呼ばれ、将軍のような扱いを受けたのです。
「足利政知」(あしかがまさとも)は、足利義澄の父。第6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)の四男です。幼い頃から僧になることを前提に育てられ、一度は出家したのですが、兄で第8代将軍の足利義政から、還俗(げんぞく:出家した者が俗人に戻ること)して鎌倉公方(かまくらくぼう:関東を統治する組織の長官)に着任するよう指示を受けます。
還俗した足利政知は鎌倉へと向かいましたが、前任の鎌倉公方「足利成氏」(あしかがしげうじ)は関東で勢力を拡大しており、室町幕府の人事に従わず、足利政知は鎌倉入りできません。
このため足利政知は伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市)にとどまって関東統治の仕事を開始。そのまま長く堀越にいたことから、足利政知は「堀越公方」(ほりこしくぼう/ほりごえくぼう)と呼ばれるようになったのです。
足利義晴は、室町幕府の第12代征夷大将軍で、足利義澄の子。父・足利義澄を担いだ日野富子らのクーデターで追われた前将軍の足利義材が軍勢を連れて都に攻め入り、今度は足利義澄が将軍を追われた頃に生を受けました。父が将軍に返り咲くことが叶わぬままこの世を去ると、父に味方していた守護大名「赤松義村」(あかまつよしむら)に保護されます。
のちに足利義材が追放されると足利義晴は将軍に就任しますが、管領・細川晴元と良好な関係を築けず、出奔(しゅっぽん:逃げて身を隠すこと)を繰り返しました。何度も出奔を繰り返したため、不在にすることが多い将軍だったのです。息子「足利義輝」(あしかがよしてる)が将軍職に就いたのち、病で没しました。
「足利義材」(あしかがよしき)は、室町幕府の第10代征夷大将軍。父は、「足利義尚」(あしかがよしひさ)と「応仁の乱」(おうにんのらん)で将軍の座をめぐって戦った「足利義視」(あしかがよしみ)です。
応仁の乱を経て将軍になったのは、足利義尚。都を追われていた足利義視は、足利義尚の両親に書簡を送るなどして和解を目指しました。やがて足利義尚が亡くなると、足利義視は息子の足利義材とともに都へ入ることを許されます。そして、足利義材は足利義尚の両親に支持され、将軍となったのです。
しかしその後、足利義材の将軍就任を後押しした足利義尚の母・日野富子と、幕政の主導権を争って不仲になりました。日野富子は、足利義材が都を離れている間に将軍職を解任して足利義澄を第11代将軍にし、足利義材を幽閉したのです。
幽閉先から脱出を果たした足利義材は、越中国放生津(現在の富山県射水市)で力を蓄えます。放生津での足利義材は、逃亡者として隠れ住んだのではなく、人員を整えて政権運営を行ったことから「越中公方」(えっちゅうくぼう)とも呼ばれました。力を付けた足利義材は軍勢とともに上洛。足利義澄を追放し、将軍に返り咲いたのです。
政変により室町幕府第11代征夷大将軍となった足利義澄は、復帰を狙う前将軍との抗争を繰り返しました。ここでは、足利義澄の誕生からこの世を去るまでの32年間にあった主な出来事を年表形式でご紹介します。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1481年(文明13年) | 1歳 |
堀越公方・足利政知と側室・円満院(えんまいん)の子として誕生する。
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1487年(文明19年/ 長享元年) |
7歳 |
上洛して出家。
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1488年(長享2年) | 8歳 |
加賀国(現在の石川県南部)で一向一揆(いっこういっき:浄土真宗の信徒による抵抗運動)が起き、守護・富樫政親(とがしまさちか)を滅ぼす。
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1489年(長享3年/ 延徳元年) |
9歳 |
室町幕府第9代将軍の足利義尚が死去。
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1490年(延徳2年) | 10歳 |
足利義材が室町幕府第10代征夷大将軍になる。
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1491年(延徳3年) | 11歳 |
異母兄の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)に母・円満院を殺される。
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1493年(明応2年) | 13歳 |
明応の政変(めいおうのせいへん)。日野富子と管領・細川政元(ほそかわまさもと)が、足利義材を将軍職から解任、追放する。
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1495年(明応4年) | 15歳 |
日野富子、細川政元らに擁立され、足利義澄が室町幕府第11代征夷大将軍になる。
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1502年(文亀2年) | 22歳 |
政務の主導権をめぐり、細川政元と対立。
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1507年(永正4年) | 27歳 |
細川政元が暗殺される。
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1508年(永正5年) | 28歳 |
前将軍・足利義材が挙兵し、都に攻め入る。足利義澄は将軍職を解任され、都を離れる。足利義材が足利義稙(あしかがよしたね)と名を改め、再び征夷大将軍に就く。
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1511年(永正8年) | 31歳 |