家系図・年表

足利義尚の家系図・年表
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足利義尚の家系図・年表 足利義尚の家系図・年表
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「足利義尚」(あしかがよしひさ)は、室町幕府の第9代征夷大将軍。第8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の実子であり、足利義政と正室「日野富子」(ひのとみこ)が授かった唯一の男児でした。その足利義尚をめぐって大きな後継者争いが発生。争いは全国に波及し、11年間続く「応仁の乱」(おうにんのらん)へと発展するのです。足利義尚が巻き込まれた後継者争いの理由や人間関係について、年表と人物紹介で解説します。

足利義尚の家系図

足利義尚」(あしかがよしひさ)と激しい後継者争いを繰り広げるのは、父・足利義政の弟「足利義視」(あしかがよしみ)です。足利義尚と足利義視はどのような関係だったのでしょうか。ここでは、足利義尚と家系図の繫がる重要人物をピックアップしてご紹介します。

足利義尚の家系図

足利義尚の家系図

足利義政

足利義政」(あしかがよしまさ)は室町幕府の第8代征夷大将軍で、足利義尚の父。足利義政の父は第6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)です。

しかし、足利義政の同母兄「足利義勝」(あしかがよしかつ)が父の後継者となったため、足利義政が将軍になる予定はありませんでした。

このため足利義政は出家して僧侶になることになっていましたが、足利義勝が早世したことにより出家の予定を中止し、将軍となったのです。

足利義政と正室・日野富子との間には男児がなかなか生まれなかったため、弟の足利義視を養子にし、次期将軍の座を約束。しかし、あとから実子である足利義尚が誕生したため、足利義視との約束は果たせなくなってしまいます。幕府内では2人の将軍候補それぞれを擁立する者が対立し、応仁の乱に発展したのです。

足利義材

足利義材」(あしかがよしき)は、室町幕府の第10代征夷大将軍。父は、足利義尚と将軍職を巡って激しく争った足利義視です。足利義材が誕生したのは、まさに将軍の後継者争いである応仁の乱が勃発せんとしている頃でした。

応仁の乱は、足利義尚が将軍になり終結。その後、足利義尚がこの世を去ると、足利義材が将軍に就任しました。

しかし、足利義材を良く思わない日野富子は、足利義材が京を離れている間にクーデターを画策。足利義材は将軍を追われ、幽閉されます。代わって「足利義澄」(あしかがよしずみ)が将軍になったのです。

幽閉先から逃げ延びた足利義材は、かつて父に味方していた大名らと将軍復帰を画策します。足利義材が味方の大軍勢を引き連れて都へ戻ると、足利義澄はたまらず逃走。足利義材は足利義稙(あしかがよしたね)と名を改めて再び将軍となりました。足利義材は室町幕府15代将軍の中で唯一、2回将軍になっているのです。

足利義視

足利義視は、足利義教の子で足利義政の弟です。5歳のときに出家していましたが、後継者のない兄に請われて還俗(げんぞく:僧から俗人に戻ること)し、将軍職を約束されて養子となりました。しかし、その後、足利義政と日野富子の間に初めての男児、足利義尚が誕生。わが子がかわいくなった将軍夫婦は、足利義尚を後継者に決め直してしまったのです。人生を狂わされた足利義視には、到底納得できる話ではありませんでした。

不満を抱える足利義視に、守護大名「細川勝元」(ほそかわかつもと)が接近。足利義視を後継者として担ぎ上げます。一方、足利義尚は守護大名「山名宗全」(やまなそうぜん)に後継者として擁立されました。将軍の後継者争いに、守護大名の権力闘争が絡んできたのです。

さらに、この当時、有力大名の畠山家と斯波家では家督争いが起きており、一門の内部が分裂していました。彼らも足利義尚派と足利義視派に分かれて衝突します。やがて各地でもそれぞれに付く勢力が現れ、応仁の乱は全国へと広がったのです。

応仁の乱が終結したのち、足利義尚が将軍に就任しましたが志半ばで早世。足利義尚の死後、足利義視は兄・足利義政と和解し、息子の足利義材とともに都へ戻りました。

日野富子

日野富子は足利義尚の母で、足利義政の正室。ようやく授かった息子の足利義尚を溺愛し、養子・足利義視との約束を破ってでも息子を将軍にしたいと強く望みました。足利義政も同じ考えではありましたが、日野富子の強い意向も、応仁の乱勃発に大きく作用したのです。

応仁の乱を経て足利義尚が将軍になると、日野富子は政治に深く介入。足利義尚は母を煙たがるようになりました。

日野富子は賄賂を受け取ったり、関所を作って徴収した通行料を着服したりするなど、金銭にも執着。応仁の乱が勃発する原因を作ってしまったり、私腹を肥やす活動にいそしんだりしたことから、後世まで「悪女」と評されるようになりました。

足利義尚の年表

足利義政の待望の嫡男であり、室町幕府の第9代征夷大将軍となった足利義尚ですが、25歳で逝去。足利義尚が生きた25年間は、どのようなものだったのでしょうか。ここでは、年表形式で足利義尚の人生における主な出来事をご紹介します。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1465年(寛正6年) 1
足利義政と日野富子の子として誕生する。
1466年(寛正7年/
文正元年)
2
文正の政変(ぶんしょうのせいへん)。足利義尚の養育をしていた伊勢貞親(いせさだちか)が、足利義政の弟・足利義視を陥れようとするも失敗し、失脚。
1467年(文正2年/
応仁元年)
3
足利義政の後継者争いを発端に、応仁の乱が勃発。
1468年(応仁2年) 4
足利義政が、伊勢貞親を復帰させる。それに不満を覚えた足利義視は、足利義政のもとから去る。
1474年(文明6年) 10
室町幕府第9代征夷大将軍となる。実権は大御所となった父・足利義政が握る。
1483年(文明15年) 19
足利義政が政務を足利義尚に譲ることを決定。足利義政は東山殿(ひがしやまどの:現在の銀閣寺京都市左京区])に移り住む。
1487年(文明19年/
長享元年)
23
守護大名の六角高頼(ろっかくたかより)が奉公衆や寺社の所領を簒奪していると訴えを受けて討伐に出陣する。
1488年(長享2年) 24
足利義煕(あしかがよしひろ)に改名する。
加賀国(現在の石川県南部)で一向一揆(いっこういっき)が起こる。
1489年(長享3年/
延徳元年)
25
病により死去。

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