家系図・年表

足利義勝の家系図・年表
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足利義勝の家系図・年表 足利義勝の家系図・年表
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「足利義勝」(あしかがよしかつ)は、室町幕府の第7代征夷大将軍。父は、権力に任せた圧政により「悪御所」と呼ばれた第6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)です。父の足利義教は強権政治で人々から嫌われましたが、足利義勝のことは大事にしていたとされています。足利義教は、幼少の足利義勝を信頼する有力者「伊勢貞国」(いせさだくに)のもとに預けて養育しました。その父が暗殺され、突然将軍になった足利義勝の人生はどのようなものだったのでしょうか。足利義勝の人生を存命中の大きな出来事を年表にまとめるとともに、足利義勝の周囲にいた重要な人物についてご紹介します。

足利義勝の家系図

足利義勝」(あしかがよしかつ)は早世しているため妻子がなく、次の将軍には同母弟の「足利義政」(あしかがよしまさ)が就きました。短い生涯ゆえに周囲にいた人々は限られますが、足利義勝と家系図が繫がる縁者をピックアップしてご紹介します。

足利義勝の家系図

足利義勝の家系図

足利義尚

足利義尚」(あしかがよしひさ)は室町幕府の第9代征夷大将軍で、足利義政の子。顔立ちが非常に美しかったことから「緑髪将軍」と呼ばれました。

子がなかった足利義政は、後継者として弟「足利義視」(あしかがよしみ)を養子に迎えます。しかし、その後、実子の足利義尚が誕生。やはり実子を後継者にしたいと考えた足利義政は、足利義視との約束を反故にしたのです。結果2人の将軍候補それぞれを担ぐ者が現れて分裂し、「応仁の乱」(おうにんのらん)に発展しました。

応仁の乱が落ち着いて足利義尚が将軍になると、父・足利義政は大御所(おおごしょ:前征夷大将軍の尊称)として実権を掌握。足利義尚が若いうちは問題なかったのですが、成長してやりたいことが出てくると父の介入に不満を覚えます。さらに、母「日野富子」(ひのとみこ)も介入するため、両親に対して不満を抱えるようになったのです。

親子の衝突は、足利義政が出家したことで沈静化。ようやく足利義尚は自由な手腕を発揮できるところだったのですが、成果を得られぬまま突然の病でこの世を去りました。

日野富子

日野富子は足利義政の正室で、足利義尚の母。日野家はもともと足利家と縁があり、足利義政の母「日野重子」(ひのしげこ)や第6代将軍・足利義教の正室「日野宗子」(ひのむねこ)も日野家の出身です。

日野富子は足利義尚を生むと、養子の足利義視ではなく実子を将軍にしたいと望むようになりました。そして、有力大名「山名持豊」(やまなもちとよ)とともに、足利義視を支持する「細川勝元」(ほそかわかつもと)と対立。応仁の乱の勃発には、わが子を将軍にしたい日野富子が積極的にかかわっていたとされています。

応仁の乱が終結し、わが子の足利義尚が将軍になると、息子からも疎まれるほど幕政に介入。財政を安定させるためにと都の各所に関所を新設して通行料を徴収しますが、日野富子は着服し、これに不満を訴える民を弾圧しました。欲望に正直な日野富子は「悪女」と評されるようになるのです。

足利義政

足利義政は室町幕府の第8代征夷大将軍で、足利義勝の同母弟。足利義勝が病により早世すると、後継者に選ばれます。予定外の将軍就任であり、足利義勝の早世がなければ足利義政は出家することになっていました。

足利義政の弟・足利義視と実子・足利義尚のどちらを後継者にするかの争いが応仁の乱に発展したため、足利義政は応仁の乱を起こした将軍と言われますが、わが子が将軍になることに強くこだわった妻の日野富子が大きな原因を作ったのも確かです。

応仁の乱の末、実子の足利義尚が将軍になると、足利義政は長く幕政に介入。足利義尚は煙たがり、親子の対立がお互いの奉公衆(ほうこうしゅう:将軍直属の軍隊)の武力衝突まで招きました。

これに危機感を覚えた足利義政は、出家して実権を手放します。しかし、まもなく足利義尚が病死し、足利義政は再び政務に戻ることになりました。

足利義教

足利義教は室町幕府の第6代征夷大将軍で、足利義勝の父。第5代将軍「足利義量」(あしかがよしかず)が早逝し、その父で政務を代行した「足利義持」(あしかがよしもち)が後継者を決めぬままこの世を去ります。

幕臣達はくじ引きを行い、後継者に決まったのが足利義教です。「くじ将軍」と呼ぶ者もいましたが、足利義教はくじの結果は神の意志であると受け入れます。将軍に就任してからも、政治判断をくじ引きに頼ることがありました。

足利義教は将軍になると、人々を力で押さえ付ける圧政を行います。態度が気に入らない者から所領を没収したり、自身を呪詛しているという噂のみで「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)を攻めたりしたので、幕臣、寺社、民衆は足利義教の強権政治に疲弊しました。

足利義教を恨む者は多く、最期は家臣に暗殺されてこの世を去ります。子の足利義勝は父の仇討ちをしようとしますが、暗殺を歓迎する者も多かったために討伐軍の足並みが揃わず難航したほどでした。

足利義勝の年表

第7代征夷大将軍となった足利義勝は将軍職に就いてから1年、10歳の若さで逝去。ここでは、年表形式でその短い人生を振り返ります。足利義勝の生涯に、どのような出来事があったのか見ていきましょう。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1434年(永享6年) 1
足利義教と側室・日野重子の子として生まれる。正親町三条尹子(おおぎまちさんじょうただこ)の猶子(ゆうし/ゆうじ:親族や他人の子を自分の子とする制度)となる。
1438年(永享10年) 5
永享の乱(えいきょうのらん)。鎌倉公方(かまくらくぼう:関東を統治する室町幕府の要職)の足利持氏(あしかがもちうじ)が幕府に不服従の動きを見せたため、足利義教は討伐軍を差し向け、足利持氏を自刃に追い込む。
1440年(永享12年) 7
逃げ延びていた足利持氏の子らが反乱を企て、結城合戦(ゆうきがっせん)を起こすが幕府に鎮圧される。
1441年(永享13年/
嘉吉元年)
8
嘉吉の変(かきつのへん)により、父・足利義教が殺される。
1442年(嘉吉2年) 9
元服(げんぷく:成人になること)し、室町幕府の第7代征夷大将軍に任命される。
1443年(嘉吉3年) 10
病によりこの世を去る。

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