「足利義量」(あしかがよしかず)は、室町幕府の第5代征夷大将軍。父で、第4代将軍の「足利義持」(あしかがよしもち)から期待をかけられ、大切に育てられました。早いうちから将軍職を継ぐ準備をしてきた足利義量ですが、体が弱いうえに酒好きという健康問題を抱えます。父の足利義持は、息子の健康を祈願したり禁酒させたりしましたが、足利義量は早逝。その短い生涯をどのように過ごしたのでしょうか。足利義量の人生を年表にまとめ、影響の大きい人物をご紹介します。
「足利義政」(あしかがよしまさ)は、室町幕府の第8代征夷大将軍。足利義量とは父親同士が兄弟の間柄で、足利義政の父が第6代将軍の「足利義教」(あしかがよしのり)です。
第7代将軍だった同母兄の「足利義勝」(あしかがよしかつ)が病死すると、後任に足利義政が選ばれます。足利義勝の早世がなければ、足利義政は出家して僧侶になる予定でした。
父の足利義教が「悪御所」と呼ばれるほどの圧政を行った反動で、社会は混乱。農民による土一揆(つちいっき/どいっき:農民が年貢の軽減などを要求して起こした組織的な反抗)や南北朝統一後も残っていた南朝の勢力が起こす反乱の鎮圧に、次第に幕府も疲弊します。
足利義政は子に恵まれなかったため、後継者として弟の「足利義視」(あしかがよしみ)を養子にしました。しかしその後、正室「日野富子」(ひのとみこ)との間に「足利義尚」(あしかがよしひさ)が誕生。幕臣達が足利義視支持と足利義尚支持に分裂し、武力衝突に至ると、全国の守護大名も都に集結し、参戦しました。こうして11年間に及んだ一連の内乱が「応仁の乱」(おうにんのらん)です。
応仁の乱が終結すると、足利義政は子の足利義尚に家督を譲って隠居しましたが、都は荒れ果て、室町幕府は統制力を失いました。在京守護大名のなかには荒んだ都を離れて地方の領地を直接、治める者が現れ、幕府の上洛命令にも従わなくなります。また全国各地で新たな勢力も台頭し始めました。こうした者達が、のちの戦国大名になっていくのです。
「足利政知」(あしかがまさとも)は足利義教の四男。出家して僧になっていましたが、兄で第8代将軍の足利義政の指示で還俗(げんぞく:一度僧になった者が俗人に戻ること)します。
その頃、関東では鎌倉公方(かまくらくぼう:関東を統治する組織の長官)の「足利成氏」(あしかがしげうじ)が、対立していた関東管領(かんとうかんれい:鎌倉公方を補佐する役職)の「上杉憲忠」(うえすぎのりただ)を殺害して、鎌倉公方の地位から降ろされる事件が起きていました。この足利成氏に代わる鎌倉公方として、足利政知は還俗させられ、都から鎌倉へと出立したのです。
しかし、鎌倉公方から降ろされた足利成氏は関東で勢力を拡大しており、足利政知は鎌倉に入ることができません。足利政知は伊豆国堀越(現在の静岡県伊豆の国市)にとどまり、「堀越公方」(ほりこしくぼう)と呼ばれるようになりました。
やがて室町幕府と足利成氏が和睦すると、足利政知は伊豆国を領国として与えられますが、堀越公方としては思うように活動できず、名を成すことはできませんでした。しかし、のちに息子の「足利義澄」(あしかがよしずみ)が室町幕府第11代将軍となるのです。
足利義持は室町幕府の第4代征夷大将軍で、足利義量の父。足利義持の父は、第3代将軍で幕府発展の大功を立てた「足利義満」(あしかがよしみつ)です。父・足利義満は偉大な存在でしたが、足利義持の弟ばかりを寵愛したり、母に冷たかったりしたことから、足利義持は父に不信感を抱き、親子は不仲でした。
足利義持は、唯一の嫡子であった足利義量をかわいがり、早くから足利義量が将軍になることを見据え、教育しました。しかし、足利義量は幼少時から虚弱で、おまけに酒好き。足利義持は息子の健康を願って祈祷を行ったり、禁酒を命じたりしましたが、祈りは届かず足利義量は早逝。将軍職が空席になったため、将軍の仕事は足利義持が代行しました。
足利義勝は室町幕府の第7代征夷大将軍で、足利義量の従弟にあたります。父で第6代将軍の足利義教は圧政で敵を作り、家臣により暗殺されました。このとき9歳だった足利義勝は、補佐する管領とともに父を殺した「赤松満祐」(あかまつみつすけ)の討伐に乗り出します。
しかし、父・足利義教の圧政に苦しんだ人々の間には、むしろ暗殺を歓迎する風潮がありました。このため幕府軍の足並みが揃わず、父の仇討ちには時間を要したのです。
足利義勝はようやく赤松氏を討伐して父の仇を討つと、元服(げんぷく:成人の儀式)して将軍に就任。しかし、将軍就任後、間もなく、病に倒れてこの世を去りました。足利義勝がたとえ長生きをしても、人々から嫌われた父による負の遺産処理に苦しんだはずですが、将軍在任は8ヵ月。わずか10年の実りを知らぬ人生でした。
足利義量が征夷大将軍職にあったのは約2年。父であり第4代征夷大将軍だった足利義持よりも先に、19歳の若さでこの世を去ってしまいます。19年の生涯には、どのような出来事があったのでしょうか。年表形式で足利義量の人生を振り返ります。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1407年(応永14年) | 1歳 |
足利義持と正室・日野栄子(ひのえいし/ひのえいこ)の長男として生まれる。
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1408年(応永15年) | 2歳 |
祖父・足利義満が病のため死去。
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1411年(応永18年) | 5歳 |
父・足利義持が、日明貿易を断絶する。
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1416年(応永23年) | 10歳 |
鎌倉公方(かまくらくぼう:関東を統治する室町幕府の要職)の足利持氏(あしかがもちうじ)と、関東管領(鎌倉公方の補佐職)の上杉氏憲(うえすぎうじのり:のちの上杉禅秀)が対立。上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)に発展。
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1417年(応永24年) | 11歳 |
元服(げんぷく:成人の儀式)を行い、正五位下右近衛中将(しょうごいのげうこんえのちゅうじょう)の位を与えられる。
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1423年(応永30年) | 17歳 |
室町幕府第5代征夷大将軍となる。
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1425年(応永32年) | 19歳 |
死去。跡継ぎがいなかったため将軍不在に。父・足利義持が再び政治を主導し、将軍職の代行を担う。
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