家系図・年表

足利義持の家系図・年表
/ホームメイト

足利義持の家系図・年表 足利義持の家系図・年表
文字サイズ

「足利義持」(あしかがよしもち)は、室町幕府の第4代征夷大将軍。父で第3代将軍の「足利義満」(あしかがよしみつ)の死により将軍となりました。父は、室町幕府の力を確かなものにした実力者でしたが、足利義持はその功績を打ち消すような行動を見せます。そこには、兄弟や親子の複雑な関係が絡んでいたのです。足利義持の実績を年表にまとめて振り返るとともに、家系図をもとに足利義持にかかわる重要な人物をご紹介します。

足利義持の家系図

足利義持」(あしかがよしもち)はなかなか男児に恵まれず、唯一の嫡子「足利義量」(あしかがよしかず)が将軍職を承継。しかし、足利義量は若くして亡くなり、足利義持は再び将軍の職務に戻ることとなるのです。多忙を極めた足利義持の事情を、血縁の人物とともにご紹介します。

足利義持の家系図

足利義持の家系図

足利義量

足利義量は、室町幕府の第5代征夷大将軍。父である足利義持はなかなか男児に恵まれず、唯一の嫡子となった足利義量に愛情を注ぎ、早いうちから後継者として教育しました。

朝廷や大名のもとを訪問する際は同行させ、足利義量が後継者であることを周知します。こうして準備を整え、17歳の足利義量が将軍になると、就任当初は若い足利義量を父・足利義持が補佐しました。

足利義量はもともと病弱なうえに酒好き。父の足利義持は足利義量の健康を心配し、健康祈願の祈祷を行い、禁酒を命じたこともありました。

しかし祈りは届かず、足利義量は19歳で早逝し、将軍に在位したのはわずか2年。足利義量にはまだ妻子もなかったため、将軍職はしばらく空席となるのです。この間、将軍の職務は父・足利義持が代行しました。

足利義勝

足利義勝」(あしかがよしかつ)は、室町幕府の第7代征夷大将軍。足利義持の弟で、第6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)の子です。

足利義勝の生母は、足利義教の側室「日野重子」(ひのしげこ)ですが、生まれるとすぐに父の継室「正親町三条尹子」(おおぎまちさんじょうただこ)の猶子(ゆうし:実親以外と親子関係を結んだ子)となります。

大切に育てられた足利義勝ですが、成長を待たず若くして将軍職を継承。父の足利義教が、室町幕府の長老格だった「赤松満祐」(あかまつみつすけ)に暗殺されたからです。足利義教が亡くなると、すぐさま足利義勝が将軍になる手はずが整えられました。

足利義勝は管領(かんれい:将軍を補佐する役職)の「細川持之」(ほそかわもちゆき)による補佐のもと、父の仇である赤松氏討伐を進めます。しかし、高圧的な政治で評判の悪い足利義教が倒れたことを歓迎する風潮もあり、赤松氏の討伐には時間を要したのです。

ようやく赤松氏の討伐を成し遂げた足利義勝は、元服(げんぷく:成人の儀式)ののち将軍の座に就きますが、まもなく赤痢とみられる病に倒れ、そのまま死去。足利義勝の将軍在任期間は8ヵ月。10年間の短い生涯でした。

足利義満

足利義満

足利義満

足利義持の父、足利義満は室町幕府の第3代征夷大将軍。父で第2代将軍「足利義詮」(あしかがよしあきら)の死により10歳で足利家を継ぎ、若いうちは周囲の補佐も得ながら将軍として成長します。

当時、朝廷が南北朝に分裂していましたが、足利義満は守護大名や寺社を味方に付けて南北朝を統一。日明貿易(中国の明朝との貿易)で財を成し、「金閣寺」(京都府京都市北区)を建立するなど、幕府と文化の発展に大きく寄与しました。

なお足利義満は、1975年(昭和50年)から7年間にわたり放送された人気アニメ「一休さん」に、主人公の一休さんととんち合戦をする将軍様として登場します。しかし現実では、一休さんのモデルで実在の僧「一休宗純」(いっきゅうそうじゅん)と足利義満がとんち合戦などの交流をした記録は、残念ながら残されていません。

足利義教

足利義教は、室町幕府の第6代征夷大将軍。足利義持の同母弟です。足利義持の子で第5代将軍の足利義量が早世し、足利義持が将軍職を代行していましたが、後継者を決めぬまま死去。幕臣達は次の将軍をくじ引きで選び、引き当てられた足利義教が将軍になったのです。

「くじ将軍」などと揶揄されますが、足利義教はくじによって選ばれたのは神の意志であったと解釈。将軍になってからも、時折くじ引きで政治判断を行うことがありました。

足利義教は将軍職に就くと圧政を行います。態度が気に入らない者の所領を没収、闘鶏(鶏を戦わせる見せ物)を見物する人々で通りが混雑していることに立腹して鶏を都から追放、自分を呪っているという噂だけで「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)を攻めるなど、幕臣から一般の町民までが足利義教の恐怖政治に疲弊していたのです。

足利義教は、力ずくの政策を続けたために敵を多く作りました。最期は室町幕府の長老格だった赤松満祐に暗殺されて命を落としますが、これを歓迎する人々すらいたのです。

足利義持の年表

室町幕府の第4代征夷大将軍となった足利義持は、どのような生涯を送ったのでしょうか。ここでは、年表形式で足利義持の歴史をご紹介。足利義持の生誕から死去までに起こった、主な出来事について見ていきましょう。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1386年(元中3年/
至徳3年)
1
足利義満と側室・藤原慶子(ふじわらのよしこ)の子として誕生。
1394年(明徳5年/
応永元年)
9
父・足利義満が将軍職を退き、足利義持が室町幕府第4代征夷大将軍となる。
1407年(応永14年) 22
嫡男・足利義量が生まれる。
1408年(応永15年) 23
父・足利義満が病により亡くなる。
1411年(応永18年) 26
日明貿易を中止する。
1416年(応永23年) 31
鎌倉公方(かまくらくぼう:関東を統治する室町幕府の要職)の足利持氏(あしかがもちうじ)と、関東管領(鎌倉公方の補佐職)の上杉氏憲(うえすぎうじのり:のちの上杉禅秀)が対立。上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)に発展。
1419年(応永26年) 34
李氏朝鮮(りしちょうせん:朝鮮半島の王朝)が対馬(長崎県)を攻めた応永の外寇(おうえいのがいこう)が起こる。
1423年(応永30年) 38
将軍職を退き、嫡男・足利義量が室町幕府第5代将軍となる。
1425年(応永32年) 40
足利義量がこの世を去り、不在となった将軍の代行を務める。
1428年(応永35年) 43
病により死去。

足利義持の家系図・年表
SNSでシェアする

キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
注目ワード
注目ワード