鎌倉9代将軍

8代将軍/久明親王
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8代将軍/久明親王 8代将軍/久明親王
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「久明親王」(ひさあきしんのう)は、初代将軍「源頼朝」亡きあとに鎌倉幕府を支配した北条氏によって擁立された8代目の鎌倉将軍です。北条氏は、自らは将軍にならず、幼い将軍を擁立し、自分達は「執権」(しっけん:将軍を補佐する役職)として幕府を思い通りに動かし続けてきました。
しかし時代が進むうちに、「得宗」(とくそう:北条氏の中でも執権を世襲した、最も有力な一族)とそれ以外の北条氏や御家人との間で権力をめぐって激しい対立が起こり始めます。また当時、朝廷の内部でも2つの勢力が天皇の座をめぐって対立していました。そんな混とんとした状況の中で、押し出されるように鎌倉幕府8代将軍になったのが久明親王だったのです。

朝廷の混乱

2派に分裂した皇統

久明親王

久明親王

久明親王は89代「後深草天皇」(ごふかくさてんのう)の第6皇子です。当時、朝廷内部は2つの派閥に分かれて互いににらみあっていました。

そのきっかけを作ったのは88代「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう:後深草天皇の父)です。

後嵯峨天皇は「上皇」(じょうこう:天皇を辞したあとの尊称)となって「院政」(いんせい)を開始するため、在位4年で子の後深草天皇に譲位(じょうい:天皇位を譲ること)します。平安時代以降、天皇ではなく上皇が朝廷の最高権力者だったのです。

両統迭立と鎌倉将軍

ところが譲位したあとで後嵯峨天皇は6歳下の弟「恒仁親王」(つねひとしんのう)の方がかわいくなり、後深草天皇に無理やり譲位させて90代「亀山天皇」を誕生させます。

このとき後深草天皇(譲位後は後深草上皇)は17歳、亀山天皇は11歳。これがきっかけとなり、後深草上皇派と亀山天皇派という2つの派閥が誕生。そして当時、両天皇が住んでいた場所から、後深草上皇派は「持明院統」(じみょういんとう)、亀山天皇派は「大覚寺統」(だいかくじとう)と呼ばれ、次の天皇の座をめぐる兄弟の熾烈な争いが始まりました。

両統迭立のはじまり

1274年(文永11年)、亀山天皇は我が子の91代「後宇多天皇」に譲位。これを不服とした後深草上皇は、幕府に何とかしてほしいと陳情しています。しかしその頃の幕府は1回目の「元寇」(モンゴル帝国による日本侵攻)への対応でそれどころではありません。

8代執権北条時宗」(ほうじょうときむね)は明確な決着を避けて「交互に天皇を出しなさい」と命じています。それから約半世紀にわたって、互いの派閥からほぼ交互に天皇が即位することになりました。これを「両統迭立」(りょうとうてつりつ)と言います。

この状況の中、少しでも自派に有利になるよう、両党は幕府との関係強化を図りました。1289年(正応2年)に7代将軍「惟康親王」が謀反の疑いありとして都に送り返されたあと、8代将軍として14歳の久明親王が迎えられましたが、久明親王は後深草上皇の子で92代「伏見天皇」の弟にあたります。これは、幕府との関係強化を狙った持明院統側が幕府に働きかけて実現したものと考えられています。

混乱する幕府(平禅門の乱・嘉元の乱)

平禅門の乱

一方の幕府内でも激しい権力争いが起こっていました。当時、幕府で北条氏に次ぐナンバー2の座にいたのが、鎌倉時代初期から続く有力御家人・「安達氏」(あだちし)です。

「比企氏」(ひきし)、「三浦氏」(みうらし)などの有力御家人が北条氏と敵対して滅ぼされたのに対し、安達氏は北条氏と縁戚関係を結ぶことで家を存続させてきました。このときの当主「安達泰盛」(あだちやすもり)の娘は北条時宗の后です。

一方、幕府の政策は、得宗が指名した「御内人」(みうちびと)と呼ばれる集団が合議で決定していました。当時、御内人のトップは「平頼綱」(たいらのよりつな)という武将。平頼綱にとって、北条氏の縁戚ということで権威を誇る安達泰盛は目障りな存在でしかありません。

北条貞時

北条貞時

そこで平頼綱は安達氏の抹殺に動き始めます。1284年(弘安7年)に北条時宗が没すると、その子「北条貞時」(ほうじょうさだとき)が14歳で9代執権に就任。

翌年、平頼綱は、安達泰盛が謀反を起こそうとしていると北条貞時に密告します。何も知らない北条貞時は、驚いて安達泰盛の討伐を命令。

これを受け、平頼綱は安達泰盛をはじめ一族全員を殺してしまいました。これを「霜月騒動」(しもつきそうどう)と言います。

こうして幕府ナンバー2のポジションを手に入れた平頼綱でしたが、1293年(永仁元年)には仲が悪かった自身の子の密告により、北条貞時の軍によって討たれてしまいました。これは「平禅門の乱」(へいぜんもんのらん)と呼ばれます。

嘉元の乱

1301年(正安3年)、鎌倉上空にハレー彗星が飛来したことを不吉な予兆とみて、北条貞時は執権の座を従兄弟の「北条師時」(ほうじょうもろとき)に譲って出家(しゅっけ:仏僧となること)します。しかし天皇位を退いたあとでも上皇として力を保った朝廷と同様に、北条貞時は出家後も政治の実権は握ったままでした。

1305年(嘉元3年)、今度は北条氏の中でもナンバー2であった「連署」(れんしょ:執権と並んで将軍を補佐する役職)の「北条時村」(ほうじょうときむら)が何者かに射殺されます。最初、これは久明親王の命令だと噂されましたが、久明親王にはわざわざ連署を殺す理由がありません。のちに北条貞時の従兄弟であった「北条宗方」(ほうじょうむねかた)が、連署の座を狙って起こした犯行であることが判明。

その結果、北条宗方も誅殺されました。事件が起こった元号から、これを「嘉元の乱」(かげんのらん)と呼びます。こうした一連の騒動により、執権・北条貞時の周囲にいた実力者はすべていなくなり、北条貞時の権力が強化されました。しかしそれと同時に、御家人達の影響力も相対的に強くなっていったのです。

平穏な歌人将軍

鎌倉歌壇をリードした将軍

朝廷と幕府のこうした混乱をよそに、久明親王は穏やかな日々を過ごしていました。「冷泉為相」(れいぜいためすけ:母は十六夜日記[いざよいにっき]を記した阿仏尼[あぶつに])を師と仰ぎ、3代「源実朝」(みなもとのさねとも)や6代「宗尊親王」などと同様に歌道に傾倒。

当時は鎌倉武士の中でも和歌が隆盛で、久明親王は自邸に多くの御家人を集めて歌会を催すなど、鎌倉歌壇において中心的な役割を果たしました。

また久明親王は優れた和歌の才能を持っており、「新後撰和歌集」(しんごせんわかしゅう)や「玉葉和歌集」(ぎょくようわかしゅう)、「続千載和歌集」(しょくせんざいわかしゅう)など8つの「勅撰集」(ちょくせんしゅう:天皇の命で編纂された和歌集)に22の歌が掲載されています。

世代交代のため都へ

平和な日々は長く続かず、久明親王は1308年(延慶元年)に北条氏によって将軍職を解かれ、都に送り返されました。

鎌倉将軍は先々代の宗尊親王、先代の惟康親王とも謀反の疑いをかけられて罪人同様の扱いで鎌倉を追われたのに対し、久明親王は単純に31歳となり、そろそろ次の将軍へと世代交代を図るためでした。そのため久明親王が都に送られたあとも幕府との関係は良好で、1328年(嘉暦3年)に久明親王が亡くなったとき、幕府は鎌倉で盛大な法要を行っています。

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初代将軍/源頼朝

初代将軍/源頼朝
日本で初めて武家による政権を打ち立てた源頼朝(みなもとのよりとも)ですが、もともと「源」姓は天皇の子供達が皇族を離れるときに下賜(かし:天皇からいただくこと)された姓でした。「平」姓も同じで、どちらもルーツをたどれば皇族です。源頼朝も最初から武士だったわけではなく、少年時代は宮中に仕え、第78代「二条天皇」(にじょうてんのう)の「蔵人」(くろうど:秘書)をしていました。これは朝廷における出世コースで、このままいけば源頼朝は朝廷の役人になっていたと思われます。しかし、父である「源義朝」(みなもとのよしとも)が平氏と戦って負けたため罪人として捕らえられ、子供だった源頼朝は、殺される代わりに伊豆に流されることに。ここから、武人としての源頼朝の物語が始まります。

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2代将軍/源頼家

2代将軍/源頼家
鎌倉幕府における9人の将軍の中で、「源頼家」(みなもとのよりいえ)はある意味で最も悲運な将軍です。父「源頼朝」(みなもとのよりとも)が急死したとき、源頼家はまだ18歳の若者。18歳は立派な大人とは言え、苦節の時代を乗り越えた父と違い、苦労知らずで育ってきた源頼家にいきなり東国武士団のトップの重責を任せるのは無理がありました。しかも源頼朝亡き今は、有力御家人(ごけにん:幕府から土地の所有を保証され、その代わりに幕府への忠誠を誓った武士)にとっては勢力を拡大するまたとないチャンス。こうして源頼家は、自分の意志とは関係なく御家人達の権力闘争の渦に巻き込まれていったのです。

2代将軍/源頼家

3代将軍/源実朝

3代将軍/源実朝
「源実朝」(みなもとのさねとも)は鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟。兄である源頼家は父に倣って政治にかかわろうとして北条氏に殺されました。兄の殺害現場にいた源実朝は、決して政治にかかわろうとはしませんでした。その代わり朝廷文化に憧れ、特に和歌には尋常ではないほど傾倒しています。自分の和歌を都の「藤原定家」(ふじわらのさだいえ:平安末期から鎌倉時代にかけての歌人。日本の歌道を代表する歌人のひとり)に送って品評をお願いしたり、自分の和歌集を編纂したり、さらには謀反の罪で捕らえられた家来の和歌に感じ入り、罪を許したという話もあるほど。また源実朝は、貴族の官位を渇望していました。そして待望の「右大臣」(うだいじん)の官位授与を祝う儀式の最中、親族によって暗殺されてしまいます。

3代将軍/源実朝

4代将軍/藤原頼経

4代将軍/藤原頼経
「藤原頼経」(ふじわらよりつね)は、3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられました。しかし当時はまだ2歳で、政治を行う能力はゼロ。つまりお飾りに過ぎなかったのです。一方、御家人の内部では激しい権力争いが続いていました。やがて藤原頼経が元服(げんぷく:成人になる儀式)して正式に将軍職につくと、その権威を利用して政治の実権を握ろうとする御家人が次々と登場します。こうして藤原頼経はその権力闘争の渦に巻き込まれていきました。

4代将軍/藤原頼経

5代将軍/藤原頼嗣

5代将軍/藤原頼嗣
鎌倉幕府5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)は、先代の「藤原頼経」(ふじわらよりつね)の子。先代が都で生まれたのに対し、藤原頼嗣は純粋に鎌倉生まれの鎌倉育ち。6歳で元服(げんぷく:成人になったことを示す儀式)し、5代将軍となります。年齢が幼く、また将軍在任期間も8年と短かったため、将軍としての藤原頼嗣の活動はほとんど記録が残っていません。その代わり、藤原頼嗣の将軍在任期間は、父である藤原頼経と北条氏が激しく権力争いを繰り広げた時期でもありました。その2つの勢力の間で、何も知らない藤原頼嗣はただ翻弄されるしかなかったのです。

5代将軍/藤原頼嗣

6代将軍/宗尊親王

6代将軍/宗尊親王
鎌倉幕府の6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)は88代「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)の子。朝廷から皇族を将軍として迎えることは、鎌倉幕府誕生の立役者である「北条時政」(ほうじょうときまさ:源頼朝[みなもとのよりとも]の義父)の時代からの念願でした。源氏の将軍が3代続き、「摂家」(せっけ:藤原氏の中でも摂政を出してきた格式の高い家柄)将軍が2代続いたあと、いよいよ念願の「宮将軍」(みやしょうぐん:皇族から迎えた将軍)の登場となります。宗尊親王は将軍となっても政治に介入しようとはせず、和歌に親しみながら穏やかな日々を送りました。しかし他の将軍と同様に、最終的には北条氏の都合で将軍職を解かれ、都に送り返されるという運命をたどります。

6代将軍/宗尊親王

7代将軍/惟康親王

7代将軍/惟康親王
鎌倉幕府の「惟康親王」(これやすしんのう)は6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)の子。将軍就任時はわずか3歳ですから政治能力はありません。これは当時の幕府で政権を握っていた北条氏の戦略で、自らは将軍にならず、「執権」(しっけん:将軍をサポートする役割。実質上の幕府の最高権力者)として幕政を自由にコントロールしていたのです。将軍が成人して万が一にも北条氏と敵対する勢力と手を組んでしまわないよう、将軍が成人するたびに都へ戻し、新たに幼い将軍を「お飾り」として立てていました。惟康親王も、そんな北条氏の思惑に翻弄され続けたひとりだったのです。

7代将軍/惟康親王

9代将軍/守邦親王

9代将軍/守邦親王
9代鎌倉将軍「守邦親王」(もりくにしんのう)は8代「久明親王」(ひさあきしんのう)の子。守邦親王が在位した期間は、鎌倉幕府が滅亡に向かって突き進んでいた時期でした。鎌倉の幕府内では北条氏の力が衰えるにしたがって「御家人」(ごけにん:幕府から領地の所有を保証される代わりに、幕府への忠誠を誓った武士団)が力を持ち始めます。また都の朝廷でも2つの派閥が激しく競い合っていました。地方には「悪党」(あくとう)と呼ばれる勢力が登場し、世の中は大混乱。こうした状況の中で将軍となった守邦親王は、歴史的な実績はほとんど残していません。1333年(元弘3年)、鎌倉幕府の滅亡の日に将軍職を辞して出家(しゅっけ:仏僧となること)し、3ヵ月後に亡くなったことだけが記録に残されています。

9代将軍/守邦親王

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