鎌倉幕府の「惟康親王」(これやすしんのう)は6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)の子。将軍就任時はわずか3歳ですから政治能力はありません。これは当時の幕府で政権を握っていた北条氏の戦略で、自らは将軍にならず、「執権」(しっけん:将軍をサポートする役割。実質上の幕府の最高権力者)として幕政を自由にコントロールしていたのです。将軍が成人して万が一にも北条氏と敵対する勢力と手を組んでしまわないよう、将軍が成人するたびに都へ戻し、新たに幼い将軍を「お飾り」として立てていました。惟康親王も、そんな北条氏の思惑に翻弄され続けたひとりだったのです。
惟康親王
3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあと、北条氏は皇族から将軍を迎えることを朝廷に強く要請しました。
源氏の将軍候補がいなくなった今、皇族を将軍とすることで幕府と将軍の権威を高め、引いては将軍を補佐する執権の立場も強化する。これが北条氏の狙いでした。
しかしこの要請を「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう:82代・後鳥羽天皇が天皇位を譲ったあとの名前)が拒否したことが、のちの「承久の乱」(じょうきゅうのらん)の原因になっています。
惟康親王系図
北条氏は仕方なく「摂家」(せっけ:天皇を補佐する摂政を出してきた、格式高い家柄)から4代将軍「藤原頼経」(ふじわらよりつね)と5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)を迎えました。
そして6代将軍宗尊親王のとき、待望の「宮将軍」(みやしょうぐん:皇族出身の将軍のこと)を迎えることができました。1266年(文永3年)、北条氏は最初の計画通り、成人した宗尊親王を都に戻し、その子である惟康親王を次の将軍にします。
ところが、ここで思わぬことが起こりました。一般的に「親王」とは、皇族の中でもいつか天皇になる資格がある、位の高い男子をさし、親王になるには朝廷から「親王宣言」を受ける必要があります。一方、それ以外の皇族の男子は単に「王」と呼ばれました。この時点で惟康親王は朝廷から親王宣言を受けていないため、正式には「惟康王」(これやすおう)です。
しかし1270年(文永7年)、朝廷は惟康親王を「臣籍降下」(しんせきこうか:天皇の子が皇族から外れること)させ、「源」姓を与えたのです。源頼朝をはじめとする源氏や「平清盛」(たいらのきよもり)などの平氏は、すべて天皇の子が臣籍降下して下賜された姓。
つまり、せっかく皇族を将軍に迎えたのに、再び「源氏」の将軍に戻ってしまったのです。ところがこの時期、北条氏も朝廷もそんなことにかまっていられない状況にありました。日本は建国最大のピンチを迎えようとしていたのです。
北条時宗
モンゴル帝国は13世紀初頭に誕生し、のちに地球上の陸地の25%を支配した強大な軍事国家。その第5皇帝で、「元」王朝を開いたのが「フビライ・ハン」です。朝鮮半島を制圧したフビライ・ハンは、次のターゲットを日本に定め、1260年代後半から何度も日本に使いを送ってきました。
幕府は執権の「北条政村」(ほうじょうまさむら)や「連署」(れんじょ:執権に次ぐ幕府の要職)の「北条時宗」(ほうじょうときむね)らが合議を重ね、その要求を無視することに決定。
同時に「御家人」(ごけにん:幕府から土地の所有を保証され、その代わりに幕府への忠誠を誓った武士)に対して、元軍の侵攻に備えよという通達を出しています。そんな中で、突然北条政村が執権を降り、18歳の北条時宗が8代目の執権に就任。
北条時宗は「得宗」(とくそう:北条氏の中でも執権の世襲を許された、最高の権威を持つ家柄)出身。そんな北条時宗を幕府の総大将として、国難に立ち向かうことにしたのです。
そのあともフビライ・ハンは何度も使いをよこしましたが、北条時宗はすべて無視し、国内の防御態勢の強化を進めます。しかしこの頃、「惣領制」(そうりょうせい:一族の中で最も統率力を持つ者が土地を相続すること)が2代・3代と進むうちに土地が細分化され、全国の御家人達は困窮していました。彼らは借金をしたり土地を売ったりして生活していたため、外敵に対して十分な防備をする余裕がなかったのです。
そこで1273年(文永10年)、北条時宗は御家人の借金をすべてなくし、すでに人手に渡ってしまった土地を持ち主に戻すという「徳政令」(とくせいれい)を発布。御家人は一時的に助かりましたが、これで御家人は二度と借金ができなくなり、さらに困窮することに。これが、やがて討幕の運動につながっていきます。
フビライ・ハンは、最初は純粋に日本との通商を望んでいましたが、一向に返事のない日本にしびれを切らし、1274年(文永11年)10月、ついに日本侵攻を開始。30,000名の兵を乗せた大船団が対馬(つしま:長崎県)・壱岐(いき:長崎県)を襲い、ついに博多(はかた:福岡県)に上陸。一騎打ちが当たり前だった日本軍に対し、元軍は集団戦法で一騎を取り囲むため、日本軍は太刀打ちできません。
しかも大きな音が鳴る「てつはう」や毒矢による攻撃に、日本軍は大苦戦。しかし、そのとき突然博多湾に暴風雨が吹き荒れ、元軍の多くが溺死。日本軍はギリギリ勝利を収めます。7年後の1281年(弘安4年)6月末、今度は140,000の兵が2度目の日本侵攻を行いますが、このときも夜半に突如暴風雨が荒れ狂い、海上の元軍兵士は次々と海に消えていきました。
2度にわたって日本を救った暴風雨は「神風」であり、日本は神の国であるという意識はこの頃に生まれています。元による2度の日本侵攻を「文永・弘安の役」、あるいは「元寇」(げんこう:[寇]は[侵略する]という意味)と呼びます。
元軍は撃退したものの、いつまた侵攻があるか分かりません。そこで北九州の警固を緩めることができず、九州の御家人達の負担は大きくなるばかりでした。その他の御家人についても、従来は戦に勝つと敗者の土地を取り上げて勝者の褒美として譲り受けることができましたが、文永・弘安の役では幕府軍が勝ったのに日本の土地が増えたわけではありません。
御家人は十分な褒美を得られず、さらに困窮していきました。しかも北条氏は警固のためと称して中国地方の要所を自分の所領にしてしまったため、御家人はこれに猛反発。幕府への不満はどんどん高まっていきました。そして日本の国難を救ったとして「国主」(こくしゅ:日本の君主)とまで呼ばれた北条時宗も病魔には勝てず、1284年(弘安7年)に32年の生涯を閉じました。
元寇の期間を「源惟康」(みなもとのこれやす)として過ごした将軍は、1287年(弘安10年)に朝廷からようやく親王宣言を受け、晴れて宮将軍の惟康親王と呼ばれるようになりました。
しかし、このときすでに24歳。北条氏が望む「お飾り」としては、少々年齢を重ねすぎていました。それから2年後の1289年(正応2年)、惟康親王は将軍職を解かれます。
理由は「何事かを企んでいたから」とされますが、もちろんこれも北条氏の謀略。当時の記録には、いきなり数名の武士が将軍御所に土足で上がり込み、惟康親王を粗末な輿に後ろ向きに押し込めたと書かれています。雨の中、泣きながら都に送還される惟康親王の姿を見た当時の人々は「都に流された」と同情しました。
しかし都に戻った惟康親王は、鎌倉将軍としては異例の長生きをします。63歳で亡くなったのは、鎌倉幕府が滅びるほんの数年前のことでした。