九州地方は、江戸時代に江戸幕府の影響が及びにくかったため、全国の他の地方に比べると大名庭園が少ない地域です。大名庭園には、江戸幕府への服従を示すために軍事費を投入して造られた背景がありますが、九州地方は江戸幕府からの干渉が少なかったため、他の地方の豪奢な庭園とは少し異なるのが特徴。九州地方を代表する大名庭園である、「松濤園」(しょうとうえん)や「水前寺成趣園」(すいぜんじじょうじゅえん)、「仙巌園」(せんがんえん)について見てみましょう。
松濤園
松濤園は、柳河藩(現在の福岡県柳川市)の藩主の立花家が造園した大名庭園です。「立花氏庭園」(たちばなしていえん)、「御花」(おはな)等とも呼ばれ、現在は国の名勝に指定されています。起源は、5代藩主「立花貞俶」(たちばなさだよし)が1738年(元文3年)に、居城「柳川城」(やながわじょう)のそばに別邸を造営したこと。柳川城二の丸から建物を移築し、約7,000坪に及ぶ壮大な大名庭園を作庭しました。四季折々の花々に包まれていたことから「御花畠」(おはなばたけ)の愛称で親しまれ、それが現在の異名・御花の由来です。
明治時代に入ると立花家は伯爵家となり、引き続き別邸を所有することとなりました。時代に合わせて改修が行われ、1910年(明治43年)には洋館を建てて地割を整備。大名庭園の松濤園の周りに、「西洋館」・「大広間」・「御居間」・「家政局[お役間]」・「門番詰め所」が点在する造りになったのです。
約100畳の大広間から松濤園を望むと、庭園側が一面開放された構造のため、池泉を中心とした美景が眼下に広がります。約280本のクロマツや約1,500個の景石、そして計14基の石灯籠が配され、池泉に浮かぶ多数の岩島は、日本三景のひとつ「松島」を模した造り。また、高さ約2.3mにも及ぶ「三尊石組」(さんぞんいわぐみ)や松を冠した亀島、岩島群を照らすための岬灯籠などもあります。
柳川城の水堀を循環させる構造で水を引いているため、池泉には水辺の生き物が生息し、カモなどの野鳥もたびたび飛来。庭園美をたたえながらも、自然の情趣にも浸れる「座観式庭園」(ざかんしきていえん:書院や座敷などの建物から庭園を眺めるために造られた庭園)です。
水前寺成趣園
水前寺成趣園は、江戸時代に熊本藩(現在の熊本県熊本市)を治めていた細川家によって造営されました。起源は、1636年(寛永13年)に初代藩主「細川忠利」(ほそかわただとし)が御茶屋を建てたこと。その後、3代藩主「細川綱利」(ほそかわつなとし)が1670年(寛文10年)から1671年(寛文11年)にかけて一帯を整備拡張し、回遊式庭園が完成しました。庭園名の「成趣園」は、中国の文学者「陶淵明」(とうえんめい)の詩に由来。「庭園は日増しに風趣を深める」という意味です。
園内の敷地は約73,000㎡と広大で、随所に「東海道五十三次」(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の名所が再現されています。池泉に架かる石橋は日本橋を表現し、中島は琵琶湖の「竹生島」(ちくぶしま)を模した物。さらに、中島の奥にはシンボルとして、高さ約20mの「富士築山」(ふじつきやま)がそびえています。全国に富士山をイメージした築山は数多く存在しますが、水前寺成趣園ほど忠実に稜線美を再現している富士築山は稀です。
1912年(大正元年)には、「京都御所」(京都市上京区)の建物だった「古今伝授の間」(こきんでんじゅのま)が水前寺成趣園に移築されました。古今伝授の間は、戦国時代に活躍した細川家中興の祖「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)が、皇族の「八条宮智仁親王」(はちじょうのみやとしひとしんのう)に「古今和歌集」(こきんわかしゅう)の解釈を伝授したときの建物です。書院造で、内部から庭園を望むと、正面に池泉や富士築山が広がっています。
また、併設の売店では細川家秘伝の銘菓「加勢以多」(かせいた)を販売。食べるときに、古今伝授の間の座敷席を選べば、かつて歴代藩主が口にした伝統菓子を味わいながら、庭園を鑑賞することが可能です。夏は「薪能」(たきぎのう)、春と秋は「流鏑馬」(やぶさめ)などの伝統行事も園内で行われます。
仙巌園
「明治日本の産業革命遺産」の構成要素として世界文化遺産に登録されている仙巌園は、1658年(万治元年)に薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)の2代藩主「島津光久」(しまづみつひさ)が別邸として造営した大名庭園です。「磯庭園」(いそていえん)とも呼ばれ、江戸時代にたびたび拡張整備を実施。まず、1672年(寛文12年)に居間や大書院などを備える「喜鶴亭」(きかくてい)が増築され、1702年(元禄15年)頃に「曲水の庭」(きょくすいのにわ:詩歌の会を楽しむための庭)が造営されました。
さらに1848年(嘉永元年)になると、10代藩主「島津斉興」(しまづなりおき)が隣接の湾を約2ha埋め立てる工事を行い、大幅に園域を拡張。その後、1852年(嘉永5年)に11代藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)が隣接地を切り拓いて近代工場群「集成館」(しゅうせいかん)を建設し、現在の庭園の姿となりました。
現在、園内は御殿を中心とした東側の庭園エリアと、集成館事業の足跡が見られる西側の「尚古集成館」(しょうこしゅうせいかん)エリアに分かれています。そのうち大名庭園としての見どころが集まっているのは庭園エリア。あえて園内に大きな池泉や築山を設けず、眼前に広がる「錦江湾」(きんこうわん)と、その奥にそびえる桜島を池泉や築山に見立てて設計しており、特に御殿の縁側からは壮大な景観が楽しめます。
また、庭園の背後にそびえる山も借景のひとつです。幕末に島津斉彬が「勝海舟」をもてなした「望嶽楼」(ぼうがくろう)からは、「千尋巌」(せんじんがん)と呼ばれる全長約11mの大岩が一望できます。島津斉興が約3,900人を動員して千尋巌の文字を岩に刻印させた、全国的にも珍しい名勝です。海景と山景双方を庭園の要素に取り込んでいるのが、特にユニークな点となっています。
その他、鶴が羽を伸ばした形に見える「鶴灯籠」(つるとうろう)は、日本ではじめてガス灯の実用化に成功した灯籠です。さらに、自然石を積み上げた「山灯籠」(やまとうろう)や、8畳分の笠をのせた「獅子乗大石灯篭」(ししのりおおいしどうろう)など、園内随所に奇抜な石灯籠を観ることができます。