長州藩(現在の山口県萩市)の下級武士の家柄出身で、明治時代に2度も内閣総理大臣を務めた「山県有朋」(やまがたありとも)は、日本庭園に縁の深い人物でした。自分で築庭計画を立案した「椿山荘」(ちんざんそう:東京都文京区)や「無鄰菴」(むりんあん:京都市左京区)、「小田原古稀庵」(おだわらこきあん:神奈川県小田原市)などは、近代日本庭園の傑作として知られています。山県有朋の生涯と、代表作と称される3つの庭園について見てみましょう。
山県有朋は、1838年(天保9年)に長門国(現在の山口県北西部)で生まれました。貧しい下級武士の家系出身でしたが、「桂小五郎」(かつらこごろう:のちの木戸孝允[きどたかよし])と出会ったことから学問や槍術に触れる機会を得、やがて桂小五郎に同行して江戸へ出て、多くの武士と交流を持つようになります。長州藩へ帰ると、持ち前の実直さが認められ、「士分」(しぶん:正規の武士の身分)に昇格。「高杉晋作」(たかすぎしんさく)が設立した「奇兵隊」(きへいたい)では「軍監」(ぐんかん:実質的な指揮官)にも任命され、長州藩を代表する武士のひとりと見なされるようになったのです。
明治維新後、山県有朋はヨーロッパに派遣されて先進国の文明を見聞し、ドイツを規範とした新たな兵制を日本にもつくるため尽力します。「西郷隆盛」(さいごうたかもり)が失脚したあとは軍部の中心人物となり、1889年(明治22年)には第一次山県内閣、1898年(明治31年)には第二次山県内閣を組閣。明治新政府内で大きな影響力を発揮したのです。
山県有朋は築庭や造園を独自に学び、著名な作庭家を雇うと同時に、自ら庭の全体計画や意匠を考案して庭園を造りました。故郷・長州藩の萩(現在の山口県萩市)の風景を東京に再現しようと、南北朝時代から椿の名所として知られていた「椿山」(つばきやま)を買い取り、東京の本邸として椿山荘を築庭。その完成度は極めて高く、122代「明治天皇」(めいじてんのう)も絶賛したほどで、政財界の重鎮達もたびたび椿山荘を訪れ、会議などを邸内で開いていました。
その後も山県有朋は、京都の別荘地「南禅寺界隈疏水園池群」(なんぜんじかいわいそすいえんちぐん)の別荘の先駆けとなった無鄰菴や、別荘地として栄えた小田原を象徴する古稀庵を築造。この3つの庭園は「山県三名園」(やまがたさんめいえん)と呼ばれ、いずれも明治時代を代表する日本庭園として、現在でも親しまれています。
作庭や造園において、山県有朋は構想と人材活用の点で優れていました。山県三名園はいずれも山県有朋が自ら構想を練り、全体計画や細部の意匠に至るまで、作庭家に指示をしていたのです。
山県有朋は、生涯で数万首を詠むほど和歌に長け、さらには書や漢詩、茶道にも精通するなど、文化的な素養がありました。日本の伝統美術に深く親しんでいた経験が、独自の美意識を形成する源泉になったとされます。
山県三名園は、いずれも著名な庭師・作庭家が施工。椿山荘と小田原古稀庵は明治時代を代表する庭師である4代目「岩本勝五郎」(いわもとかつごろう)が手がけ、無鄰菴は近代日本庭園の先駆者である7代目「小川治兵衛」(おがわじへえ)が担当しました。山県有朋は、庭園への造詣の深さとカリスマ性で、時代の名職人達に、自分の満足のいく庭園を造らせたのです。
のちに小川治兵衛が芝などの西洋種を用いたり、水の流れを重視して作庭を行ったりしたのは、山県有朋の無鄰菴を手がけたことがきっかけとされています。
椿山荘 庭園
1878年(明治11年)、山県有朋が椿山と呼ばれる地を購入して本邸を建てたのが、椿山荘です。山県有朋が自分で庭の造りかたを指示し、岩本勝五郎が施工。約20,000坪の広大な敷地を活かして、「林泉回遊式庭園」(りんせんかいゆうしきていえん:池泉・築山・枯山水を主体とした回遊型の庭園)を造りました。
起伏に富んだ地形に、台地の崖や緩やかな傾斜が映えるよう自然木を配置し、山水画のようなデザインの画期的な庭を造成。また、築庭当時は西側に富士山、北側に筑波山、東側に房総半島の山々がそびえ、さらに南側には宮城の森が広がっていました。園内を回遊すると、様々な借景の美を楽しむことができたのです。山県有朋は晩年、「のちにここに住む人物も、私のように自然を守り続け、この山水を楽しむような、私の望みどおりの人物であろうか」と述べたと言います。
無鄰菴 庭園
山県有朋の依頼で小川治兵衛が作庭した無鄰菴は、正式には「第三無鄰菴」と言います。もともと無鄰菴は全国に3つあり、いずれも山県有朋の別邸でした。そのうち「南禅寺」(京都市左京区)のそばに設けられた第三無鄰菴が、山県三名園のひとつとなっています。
無鄰菴が生まれたきっかけは、1885年(明治18年)から約5年がかりで「琵琶湖第一疎水」(びわこだいいちそすい)が完成したことです。滋賀県の琵琶湖から京都市への水路が開通したため、水を活かした作庭が可能になり、水路のあった南禅寺の周辺一帯に別荘が造られるようになりました。無鄰菴はその先駆けとなった別荘で、山県有朋は1892年(明治25年)から構想を練りはじめ、1896年(明治29年)に完成。約1,000坪の比較的狭い敷地ながら、様々な意匠を盛り込むことで革新的な庭園が生み出されたのです。
それまで、日本庭園で水を用いる場合、池泉を設けるのが一般的でした。しかし、無鄰菴の構想で山県有朋は、小川治兵衛と話し合って、川を庭園の主役にすることを考案。琵琶湖疎水から引き込んだ水で小川を造り、その流れを楽しめる庭園を造ったのです。この手法はその後、小川治兵衛によって大成されました。
また、借景の見事さも無鄰菴の特徴です。山県有朋は、庭園の背後にそびえる東山(ひがしやま)を目立たせるように指示。これにより庭園のあちこちで東山を望める構造になりました。より東山を際立たせるため、山里で多く見られるモミの木を30本植栽し、自然の景観に近い空間を造り上げたのです。
小田原古稀庵
山県有朋が晩年を過ごした別荘が小田原古稀庵です。山県有朋が古稀を迎えた1907年(明治40年)に建てられ、作庭は山県有朋の指導のもと、岩本勝五郎が行いました。園内は高低差を活かして草木が配され、それらを縫うように、箱根の清水を引き込んだ小川が流れています。近隣の山に水源池を設け、その綺麗な水で滝や小川が造られる、水の美しさが特に際立つ構造です。山県有朋は、1922年(大正11年)の臨終の時を小田原古稀庵で迎えました。