幕末の人物一覧

岡田以蔵
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「岡田以蔵」(おかだいぞう)は、天皇を尊び外国を排斥する思想「尊皇攘夷思想」のもとで「武市瑞山」(たけちずいざん、武市半平太[たけちはんぺいた]とも)によって組織された過激派組織「土佐勤王党」(とさきんのうとう)の党員で、敵対勢力に属する人間を何人も斬殺した人物です。現在では「人斬り以蔵」の呼び名で、「田中新兵衛」(たなかしんべえ)・「中村半次郎」(なかむらはんじろう)・「河上彦斎」(かわかみげんさい)と並ぶ幕末の「4大人斬り」のひとりとして知られています。岡田以蔵の生い立ちと活動内容、最期について見てみましょう。

岡田以蔵の生い立ち

剣術に才があった少年

岡田以蔵

岡田以蔵

1838年(天保9年)、岡田以蔵は土佐国土佐郡江口村(現在の高知県高知市はりまや町)の「郷士」(ごうし:武士の待遇を受けた農民)の家に生まれました。実名は「宜振」(よしふる)とされますが、諸説あります。

父は岡田家5代当主「岡田嘉平太」(おかだきへいた)で、世話好きで儒教・詩文に長けたとされる人物。母「里江」(さとえ)も和漢の学問に通じた人物で、教養人の両親のもと、岡田以蔵は明るい家庭で漢学や読書、そして撃剣(げっけん)を学んで育ちます。学問は得意ではなかったようですが頑強な身体と俊敏さをもち、武芸の巧みな青年に成長しました。

岡田嘉平太は岡田以蔵の教育を、近隣に住む学問にも人間性にも優れた武市瑞山に託したともされます。

武市瑞山とともに剣術修業

土佐

土佐

岡田以蔵は、1850年(嘉永3年)頃から約4年間、武市瑞山の道場で小野派一刀流(おのはいっとうりゅう)の剣術を学びました。

当時、日本の近海には外国船が出没していたため、土佐藩(現在の高知県)では海防のために西洋砲術を導入。岡田以蔵も砲術を学びつつ、剣術でも研鑽を積み、才能を開花させます。

1856年(安政3年)、19歳の岡田以蔵は土佐藩から支援を受けて江戸へ向かい、武市瑞山を追う形で、剣術家「桃井春蔵」(もものいしゅんぞう)の道場「士学館」(しがくかん:現在の東京都中央区)で修業を開始。翌年の1857年(安政4年)には鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の目録を取得して修業を終え、その秋に土佐藩に帰郷しました。

「人斬り以蔵」の誕生

土佐勤王党の暗殺実行役となる

桜田門外の変

桜田門外の変

1860年(万延元年)、岡田以蔵は師である武市瑞山とともに四国・中国・九州の諸藩をめぐる剣術修業の旅に出ます。当時は、専制的な江戸幕府に反発した尊王攘夷運動が活発化し始めた時期。同年3月3日には、大老「井伊直弼」(いいなおすけ)が襲撃され死亡した「桜田門外の変」も起きていました。

そんななか、1861年(文久元年)に武市瑞山は尊王攘夷を掲げ「土佐勤王党」を結成。特に理念や思想をもたないまま参加を希望した岡田以蔵については、武市瑞山がやむを得ず仲間に加えたとも言われています。そのためか、岡田以蔵は党の主要な活動にはかかわらず、1862~1863年(文久2~3年)に暗殺活動で活躍。武市瑞山の指示で田中新兵衛らとともに「天誅」(てんちゅう:天罰)と称した暗殺を繰り返し、土佐勤王党の尊王攘夷活動に邪魔な存在を次々と殺害しました。

土佐藩の「吉田東洋」(よしだとうよう)殺しの探索をしていた監察「井上佐一郎」(いのうえさいちろう)、勤王の志士「本間精一郎」(ほんませいいちろう)、尊王攘夷派弾圧に関与した「宇郷玄蕃」(うごうげんば)などの暗殺が知られます。同志達は、岡田以蔵のあまりの凶暴性がいつか裏目に出るのではないか、と危ぶんでいたともされるのです。

急進的な活動で土佐藩の実権を握った武市瑞山の土佐勤王党は、長州藩(現在の山口県萩市)・薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)の尊王攘夷派とともに、尊王攘夷を江戸幕府に迫るための勅使として、正使「三条実美」(さんじょうさねとみ)、副使「姉小路公知」(あねがこうじきんとも)ら尊王攘夷派公卿を江戸に送りました。その際、岡田以蔵は姉小路公知の護衛を務めています。

脱藩

1863年(文久3年)正月、なぜか土佐藩を脱藩して無宿者となった岡田以蔵は京都から江戸に向かい、2月には長州藩士「高杉晋作」(たかすぎしんさく)を訪ね居候。経緯は不明ながら、高杉晋作とも交流のあった幕臣で、勤王の志士達からの信頼も厚い「勝海舟」(かつかいしゅう)の護衛も行い、襲撃者を撃退しています。

岡田以蔵の最期

土佐藩に逮捕される

1863年(文久3年)、京都で「八月十八日の政変」が起きます。この軍事クーデターで、会津藩(あいづはん:現在の福島県西部と新潟県・栃木県の一部)・薩摩藩と公武合体派の公卿らが尊王攘夷派の長州藩を京都から追放したため、江戸幕府を支持する佐幕派が勢力を盛り返しました。その影響で、長州藩と連携していた土佐勤王党も京都での活動が困難となります。

また、かつて井伊直弼が行った、江戸幕府に反対する者達への大弾圧「安政の大獄」による謹慎を解かれた元土佐藩主「山内容堂」(やまうちようどう)が土佐藩の藩政を掌握し、土佐勤王党の弾圧を開始。党首である武市瑞山は逮捕され、土佐勤王党は危機に直面します。しかし、土佐藩は武市瑞山の罪状を裏付ける決定的な証拠を掴んでいませんでした。

そんななか、脱藩浪人で無宿者となっていた岡田以蔵が京都で捕らえられます。「鉄蔵」という偽名を用いて、商家から金品を奪う「押し借り」を行っていたのです。その罪で洛外追放となった直後に、今度は土佐藩の目付によって捕らえられました。

元土佐勤王党員とは言え、強い尊王攘夷思想をもっていなかった岡田以蔵は、信念が希薄な部分があったとも言われます。そのため、武市瑞山を含む土佐勤王党の元同志達は、逮捕された岡田以蔵が保身のために簡単に自供してしまうのではないかと恐れました。

岡田以蔵と土佐勤王党の最期

捕縛され拷問を受けた岡田以蔵は、勤王党の活動や武市瑞山に指示された暗殺の顛末などを次々と自供。獄中の土佐勤王党員らは、岡田以蔵の自供によってまだ捕まっていない党員や同志に危害が及ぶことを恐れ、毒殺を企てたとされますが、この計画は未遂に終わりました。岡田以蔵の自供で多くの仲間が捕らえられて処罰され、土佐勤王党は崩壊していったのです。

1865年(慶応元年)閏5月11日、武市瑞山の切腹刑と同じ日に岡田以蔵は打ち首に処され、28年の生涯を終えました。

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武市瑞山

武市瑞山
「武市瑞山」(たけちずいざん:武市半平太[たけちはんぺいた]とも)は、幕末の土佐藩(現在の高知県)の優れた剣術家であり思想家です。尊王攘夷論(天皇を敬い外国を排除すること)を掲げる長州藩(現在の山口県)の「久坂玄瑞」(くさかげんずい)や「高杉晋作」らとの交流を経て、「土佐勤王党」(とさきんのうとう)を結成しました。

武市瑞山

佐久間象山

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「佐久間象山」(さくましょうざん)は19世紀の思想家・兵学者です。日本が外国から開国を迫られていた幕末期に、佐久間象山は海外事情を研究し、現実的な思考のもと、開国を提唱しました。佐久間象山の思想は「勝海舟」(かつかいしゅう)、「坂本龍馬」(さかもとりょうま)、「吉田松陰」(よしだしょういん)などに影響を与えましたが、馬で移動している最中に襲撃にあい暗殺されたのです。

佐久間象山

幕末の剣士

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歴史上で幕末の剣士と言えば、誰を思い浮かべますか。1853年(嘉永6年)のペリー来航により、多くの人が外国の脅威を身近に感じるようになりました。「尊王攘夷」、「倒幕」の動きが激しくなり、これに比例するように、幕末には「剣術」が流行。剣術を極めた剣豪が数多く出現し、活躍したのです。剣士の歴史や定義、有名な幕末の剣術流派、道場、幕末最強の剣士について、詳しくご紹介します。

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