いしどうこれかず
「石堂是一」(いしどうこれかず)は、「江戸新刀」の隆盛期に繁盛した「江戸石堂派」(えどいしどうは)を率いた刀工です。近江国(現在の滋賀県)出身で、備前国(現在の岡山県東南部)の「一文字助宗」(いちもんじすけむね)の末裔とされています。
江戸へ移住し、江戸石堂派と称される一大流派を築くと、1721年(享保6年)に江戸幕府のお抱え刀工に就任。以降、8代にわたり「是一」の銘が受け継がれました。初代が「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において「良業物」(よきわざもの)に格付けされている他、後継にも恵まれ、代々繁盛します。特に、幕末期に活躍した「7代 是一」、通称「運寿是一」(うんじゅこれかず)は、石堂派を代表する名工です。
1841年(天保12年)に「伊勢神宮」(いせじんぐう:三重県伊勢市)と「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう:栃木県日光市)、両宮の奉納刀鍛造を命じられ、「徳川家」の家紋である「葵紋」の切り添えを許されました。
また、1854年(嘉永7年/安政元年)にはアメリカへ送る日本刀を、さらに1859年(安政6年)には、イギリスへ送る薙刀(なぎなた)を作刀するなど、数多くの御用を江戸幕府から拝命したと伝えられています。