本刀は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて尾張国(現在の愛知県西部)で活動した「飛騨守氏房」(ひだのかみうじふさ)が鍛えた刀。「相模守政常」(さがみのかみまさつね)、「伯耆守信高」(ほうきのかみのぶたか)とともに「尾張三作」(おわりさんさく)に数えられます。
飛騨守氏房は、美濃国の関(現在の岐阜県関市)出身の刀工で「織田信長」(おだのぶなが)の抱え鍛冶を務めた「若狭守氏房」(わかさのかみうじふさ)の子。1578年(天正6年)ごろ11歳で「織田信孝」(おだのぶたか)の小姓(こしょう:主君の雑用を務める武士)となりますが、織田信孝が「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)に敗れて自害したことなどを受け、刀工に転身。父の若狭守氏房に入門し、父の死後は信高について修行しました。
1592年(天正20年)、氏房、政常、信高の3人は「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)からそれぞれ受領名を与えられ、氏房は「飛騨守氏房」と名乗るようになります。また、豊臣氏から徳川氏へ政権が交代する中で、尾張国では「清洲越し」や尾張藩の成立など大きな動きがありましたが、氏房達尾張刀工は時代の変化に合わせて拠点を名古屋へ移し、尾張藩の武士のために作刀し続けたのです。
本刀は、鎬造り(しのぎづくり)に中鋒/中切先で鎬高い、均整の取れた姿で、地鉄は板目肌が流れて肌立ち、地沸は厚く付いて地景がよく入る他、飛焼や湯走りも見られます。刃文は刃縁よく沸付いて匂口が深い湾れ交じり互の目で、刃中には足、葉が入り、金筋や砂流しもかかっています。帽子は焼き深く湾れ込み、先は小丸風に長く返ります。地沸が強く、飛焼風の湯走りが多数見られる点や、湾れ刃や互の目刃を焼く点は、氏房の典型的な作風で、健全で真面目な1振です。