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江戸時代
とくがわよりのぶ しょうそくふく 徳川頼宣 消息幅 /ホームメイト

「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)は、「徳川家康」の10男で、紀州徳川家の祖となった人物です。徳川頼宣が記した「消息」が1幅の掛け軸に配されました。「消息」とは、自身や家の者が達者なことを伝える手紙を指します。
1619年(元和5年)、紀伊国和歌山(現在の和歌山県)55万5,000石への転封が決まった徳川頼宣は、家臣を派遣して領地と領民の調査をさせました。入国後は調査をもとにして、「和歌山城」の改築や、城下町の整備、浪人問題の解決などに力を尽くし、紀州藩繁栄の基礎を築いたのです。
覇気のある人柄であったと言われ、ときに豪気が過ぎる逸話も残されていますが、重臣や周りの者の進言を聞き入れる度量を持っていたことも伝えられています。
1651年(慶安4年)に起こった「慶安の変」においては、首謀者である「由井正雪」(ゆいしょうせつ)が、徳川頼宣の文書を偽造したため謀反の疑いをかけられましたが、徳川頼宣は「外様大名ならともかく、自分の偽書を使うようなら天下は安泰である」と胸を張って釈明。
外様大名が首謀者とされたなら再び世は乱れるかもしれないが、将軍の身内である自分が謀反など企てるはずがないという意味で、咎めは受けませんでした。
