武士による初の政権となった鎌倉幕府は、初期の「独裁体制」に始まります。そのあと、鎌倉将軍に次ぐ地位である「執権」(しっけん)が政権を握った「執権政治」、政務に精通した人材を集めた「評定衆」(ひょうじょうしゅう)による「合議政治」(ごうぎせいじ)へ。さらには、北条氏本家「得宗」(とくそう:北条氏本家の家系)の独裁による「得宗専制」(とくそうせんせい)へ移行するなど、次々にその仕組みを変えていきました。「寄合衆」(よりあいしゅう)とは、鎌倉時代の末期に得宗の下に置かれた会議のこと。得宗を補佐して政治にかかわる重要な問題を決定する役割を担っていました。この寄合衆が登場する経緯において、鎌倉幕府を巡る権力争いの系譜が見え隠れしています。
源頼朝
鎌倉幕府は当初、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)が「御家人」(ごけにん:鎌倉将軍と主従関係を結んだ武士)を掌握し、重要な政策の決定をひとりで行う独裁体制でした。
源頼朝の死後、嫡男「源頼家」(みなもとのよりいえ)が鎌倉幕府2代将軍となりますが、源頼朝のような独裁を防ぐために、重要な政策は有力御家人達で話し合って決めることになります。
この顛末 (てんまつ)を描いたのが、2022年(令和4年)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」です。
そのあと、源頼家は御家人同士の権力争いに巻き込まれ、母親の「北条政子」(ほうじょうまさこ)によって「修禅寺」(しゅぜんじ:静岡県伊豆市)へ幽閉(ゆうへい:一室に閉じ込め一切の外出を禁止)。祖父「北条時政」(ほうじょうときまさ)によって殺されてしまいます。
しかも、鎌倉幕府第3代将軍を継いだ弟「源実朝」までも暗殺されたため、北条氏をはじめとする有力御家人は、京都から「藤原頼経」(ふじわらのよりつね:源頼朝の叔母・坊門姫[ぼうもんひめ]のひ孫)を、鎌倉幕府第4代将軍として迎えました。
しかし、これはあくまでもお飾りの鎌倉将軍で、政権を握っていたのは御家人達。なかでも北条氏は代々「執権」(しっけん:将軍を補佐する役職)の座を世襲し、鎌倉幕府を動かし続けました。この時代の政治体制を「執権政治」と呼びます。
北条時頼
1246年(寛元4年)、5代執権に就任した「北条時頼」(ほうじょうときより)は、北条氏内部の権力争いを防ぐため、自身の家系を「得宗」(とくそう)と称し、以降の執権は得宗から出すことを制定。
しかも重要な政治問題も評定を通さず独断したのです。
反対した者は職を解かれたため、やがて評定衆をはじめとする鎌倉幕府の中枢は、北条氏にゆかりのある者ばかりになってしまいました。
この得宗執権による独裁体制を「得宗専制」と呼びます。このように、鎌倉幕府は「権力者の独裁」と「御家人の合議」という2つの体制の間をゆれ動きながら権力を維持していったのです。
そして、鎌倉時代後期に登場した合議が寄合衆です。寄合とは、得宗の近親者・縁故者・有力御家人で構成された機関で、幕政上の重要問題を審議し得宗を支えるもの。
1266年(文永3年)、鎌倉幕府6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう:88代・後嵯峨天皇[ごさがてんのう]の第一皇子)が北条氏への謀反を企んでいるという噂が流れます。
このとき、のちの8代執権「北条時宗」(ほうじょうときむね:北条時頼の子)・「北条政村」(ほうじょうまさむら:7代執権)・「北条実時」(ほうじょうさねとき)・「安達泰盛」(あだちやすもり:鎌倉時代初期から幕府を支えた有力御家人、安達氏の頭領)の4名が合議を行い、宗尊親王の更迭を決めました。これが寄合衆の始まりとされます。
北条貞時
1284年(弘安7年)に北条時宗が亡くなると、14歳の「北条貞時」(ほうじょうさだとき)が9代執権となります。幼い北条貞時に政権を担うことはできず、鎌倉幕府内の権力闘争は再び激化。
1293年(永仁元年)、成人した北条貞時が争いを鎮め、再び父・北条時宗のような得宗専制を推進します。寄合衆が正式に評定衆の上位に位置づけられたのもこの頃でした。
しかし、1305年(嘉元3年)に「嘉元の乱」(かげんのらん:北条氏の内部闘争)が起きると、北条貞時は急に政治に対する関心を失ってしまいます。こうして幕政は、再び寄合衆の合議で動かされることになり、さらには北条貞時以降の得宗執権の地位は完全に形式的なものとなってしまいました。
鎌倉時代初期に鎌倉将軍がお飾りになったように、鎌倉時代後期には、得宗執権までもがお飾りになってしまったのです。幕政は寄合衆の合議にゆだねられることになりましたが、寄合衆は全国の御家人達を統率することができず、徐々に鎌倉幕府は弱体化。やがて終焉に向けて突き進むことになってしまいました。