「上杉憲実」(うえすぎのりざね)は、室町時代中期の武将で「関東管領」(かんとうかんれい:関東地方を治めた鎌倉府の要職)です。儒教の影響を受け、目上の人への忠誠心が人一倍強い人物でした。室町幕府に反抗する主君を諫め続けたものの、それが不和を招き、「永享の乱」(えいきょうのらん)を引き起こし、主君を死に追いやってしまいます。晩年、上杉憲実はその後悔の念から、出家して諸国を遍歴。学問を好み、中世の高等教育機関「足利学校」を再興したことでも知られます。
上杉憲実
室町幕府が関東地方を支配するため、出先機関として設置したのが鎌倉府(かまくらふ)です。
関東管領とは、その長官である「鎌倉公方」(かまくらくぼう)を補佐する役職。室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の母方の一族・上杉氏が、関東管領を代々世襲しました。
上杉憲実は1410年(応永17年)、越後国(えちごのくに:現在の新潟県)の守護「上杉房方」(うえすぎふさまさ)の三男として誕生。しかし、従兄で関東管領だった「上杉憲基」(うえすぎのりもと)が死去したため、1420年(応永27年)に上杉憲実は10歳で4代関東管領に就任しました。
1428年(応永35年)、室町幕府4代将軍「足利義持」(あしかがよしもち)が後継者を決めないまま死去してしまいます。その結果、くじ引きにより、足利義持の弟「足利義教」(あしかがよしのり)が新将軍の座に就くことに。
当時、上杉憲実の主君であった4代鎌倉公方「足利持氏」(あしかがもちうじ)は、自分が室町幕府将軍に選ばれなかったのが不満でした。そこで、兵を率いて京都を攻めようと試みるものの、上杉憲実の説得で何とか思い留まります。
その後も足利持氏は次々と反室町幕府の行動に出ますが、上杉憲実はそのたびに説き伏せ、鎌倉府と室町幕府との調停に努めました。しかし、足利持氏はそんな上杉憲実に対して、次第に反感を抱くようになっていったのです。
そして1438年(永享10年)、足利持氏はとうとう上杉憲実を討伐するため挙兵。これが「永享の乱」(えいきょうのらん)です。室町幕府はすぐさま上杉憲実へ救援軍を送り、足利持氏軍を鎮圧。ところが上杉憲実は、自分を討とうとしたにもかかわらず、主君・足利持氏の助命を室町幕府に嘆願します。しかし、室町幕府5代将軍・足利義教は決して許さず、足利持氏は自害させられてしまいました。
永享の乱が鎮圧されると、関東は平穏を取り戻したかに見えました。自分のせいで主君・足利持氏を死に追いやった責任を取り、上杉憲実は弟の「上杉清方」(うえすぎきよまさ)に関東管領を譲って出家。その後、室町幕府から何度復帰を命じられても拒み続けます。さらに、上杉憲実は息子達も出家させ、決して関東管領にならないよう命じました。
しかし1447年(文安4年)、足利持氏の遺児「足利成氏」(あしかがしげうじ)が鎌倉公方になると、上杉憲実の長男「上杉憲忠」(うえすぎのりただ)が、父の教えに背いて関東管領に就任。すると、上杉憲実こそ父の仇と考えていた足利成氏は、その子である上杉憲忠を殺害してしまいます。
これがきっかけとなり、1454年(享徳3年)、鎌倉公方方と関東管領方による全面戦争「享徳の乱」(きょうとくのらん)が勃発。以降、関東地方は長い戦乱時代へ突入していきました。
その後も上杉憲実は「主人を死なせた罰」と自らをいさめ、諸国を遍歴する暮らしを送ります。遠くは九州まで赴きましたが、1466年(文正元年)に長門国(ながとのくに:現在の山口県北西部)「大寧寺」(だいねいじ:山口県長門市)で死去。享年57歳でした。
足利学校
栃木県足利市にあった「足利学校」(あしかががっこう)は、平安時代初期の創設と伝わる中世の最高学府です。
室町時代前期には衰退していましたが、上杉憲実が1439年(永享11年)に再興しました。貴重な蔵書を寄贈したり、鎌倉の代表的禅宗寺院・「円覚寺」(えんかくじ:神奈川県鎌倉市)から「快元」(かいげん)を初代校長に招いたりするなど尽力します。
学費は無料で、易学(えきがく:中国の儒教に基づく学問)を中心に、儒学・兵学・医学・天文学などを講義。僧侶・武士の高等教育機関として全国から学生が集まり、最盛期には生徒数3,000人と記録されています。1921年(大正10年)に国指定史跡、2015年(平成27年)に日本遺産「近世日本の教育遺産群」に指定されました。