「登譽上人」(とうよしょうにん)とは、戦国時代の浄土宗僧侶で、「徳川家康」の先祖「松平親忠」(まつだいらちかただ)が建立した「大樹寺」(だいじゅじ:愛知県岡崎市)の13代住職を務めた人物です。大樹寺は松平氏の菩提寺(ぼだいじ:先祖代々の墓がある寺院)であったことから「桶狭間の戦い」で今川家から独立を図った徳川家康は、居城「岡崎城」(現在の愛知県岡崎市)からほど近い大樹寺に入りました。しかし敵兵に囲まれてしまったため、徳川家康は自害を決意しましたが、思い留まらせたのが登譽上人だったと伝わっているのです。以来、徳川家康は大樹寺に厚い信頼を寄せるようになります。徳川家康の遺命には「位牌は三河大樹寺に祀るべきこと」といった言葉があり、江戸幕府の初代将軍・徳川家康から14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)まで等身大の位牌が安置されていることでも有名です。登譽上人とはどんな人物で、どんな助言を徳川家康にしたのかを紐解いていきましょう。
徳川家康
徳川家康の先祖が建立し菩提寺としたこともあり、大樹寺は徳川家康と深くかかわりのある寺院でした。
その徳川家康は、三河国岡崎を治める松平氏8代当主「松平広忠」(まつだいらひろただ)の嫡男として1542年(天文11年)に誕生します。
徳川家康が生まれた頃の三河国は、強大な駿河国(現在の静岡県中部、北東部)の今川氏や、領土を広げようと画策する尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏に挟まれ、国境で幾度も小競り合いが起きていた時代。
今川義元
岡崎を守るため松平広忠は、今川氏の庇護(ひご)を受けようと幼い徳川家康を「今川義元」(いまがわよしもと)のもとへ人質として預けることにしました。
数年後の1560年(永禄3年)、青年となった徳川家康は今川軍として織田軍との戦に向かいましたが、今川義元が桶狭間の戦いで急襲してきた「織田信長」に討ち取られたと知らせが入ります。
織田軍が攻めて来る前に今川氏の領地へ戻ろうとした徳川家康のもとに、岡崎城からも今川氏の置いた城代(じょうだい:城主の代理人)が逃げ去ったという情報が入りました。これを今川氏から独立できる好機とした徳川家康は、自身が生まれた岡崎城を取り戻すべく岡崎へ向かいます。
しかし、岡崎城から城代は去ったものの、桶狭間から敗走してきた今川軍が駐屯(ちゅうとん)していたため城には入れなかったのです。そこで徳川家康は、岡崎城下にある大樹寺へ数十人ほどの家臣と共に逃げ込むことにしました。
松平氏の本領地である岡崎と城を取り戻そうとしましたが、少ない兵だけで戦うのは無理だと諦め、徳川家康は先祖の墓前で自害しようします。大将首を引き渡せば家臣だけでも命は助かると、徳川家康はそう考えたのです。
このときに現れたのが大樹寺の13代住職・登譽上人でした。登譽上人は、「男子たるもの、死中に生計を求むべきである。坐して死すべきではない」と徳川家康を叱り付けたと伝わります。そして登譽上人は、徳川家康を励ますため浄土宗の教えにある「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)を説きました。
厭離穢土欣求浄土とは、平安時代中期の僧「源信」(げんしん)が著した仏教書「往生要集」(おうじょうようしゅう)に出てくる文言で、「現世の汚れた世界を離れて、阿弥陀如来のいる極楽浄土を目指す」といった意味になります。
往生要集は「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の念仏を唱えることで極楽に行けることを説く教えであり、鎌倉時代に浄土宗を開いた僧「法然」(ほうねん)はこの教えを根本原理としているのです。
浄土宗の僧である登譽上人が徳川家康に伝えたかったのは、「争いが絶えないこの世を平和に導き、浄土のように豊かにしなさい」ということでした。
登譽上人は、徳川家康を生かすため僧兵と門徒を集め、大樹寺を今川軍の残兵から防守させます。大きな布に「厭離穢土欣求浄土」と書き、登譽上人は自らこれを掲げて僧兵達に指示を飛ばしたと伝わるのです。
織田信長
登譽上人の奮戦によって生きる気力を取り戻した徳川家康は、そののち岡崎城への入城を果たし、宿敵でもあった織田信長と「清洲同盟」を結びました。
徳川家康は天下人となるための第一歩を踏み出すこととなりますが、登譽上人と徳川家康の逸話は脚色が多いとされています。それでも徳川家康が大樹寺に逃げ込み、登譽上人が助言をしたことは間違いないと考えられているのです。
また徳川家康の祖先となる松平氏は浄土宗の念仏信仰を行い、祖母「於富」(おとみ)と母「於大の方」(おだいのかた)も浄土宗を信仰していました。このことから徳川家康は、もともと厭離穢土欣求浄土の思想を理解していたと考えられます。
ただ危機的状況に陥ったときに授かったこともあり、徳川家康は「厭離穢土欣求浄土」の言葉を戦場の旗印としても掲げ、生涯の座右の銘としました。