源氏と平氏が覇を競った「源平合戦」(げんぺいがっせん)において、悲劇の武将として語り継がれているのが「平敦盛」(たいらのあつもり)です。「一ノ谷の戦い」(いちのたにのたたかい)に参戦したものの、わずか17歳で討死。凜とした最期を迎えたことから、平氏一門の悲哀を象徴する人物として、のちに能や歌舞伎の題材として採用されました。「平敦盛」では平敦盛の生涯とともに、平敦盛を主題とする伝統芸能の数々を紹介します。
平敦盛
平敦盛は、平氏の棟梁「平清盛」(たいらのきよもり)の甥にあたる人物で、1169年(嘉応元年)に生まれました。父は、平清盛の異母弟「平経盛」(たいらのつねもり)です。
平敦盛は、幼い頃より笛の名手として一目置かれ、祖父「平忠盛」(たいらのただもり)が74代「鳥羽天皇」(とばてんのう)より賜った名笛「青葉」(あおば:一説では小枝[さえだ])を愛用。また、官職に就いていなかったものの「従五位下」(じゅごいのげ)の地位を与えられ、「無官大夫」(むかんのたいふ:位階が五位であっても官職に就いていない者)と称されました。
平敦盛が歴史の表舞台に登場したのは、1184年(元暦元年)に源氏勢と平氏勢が摂津国(現在の大阪府北中部、兵庫県南東部)で相まみえた、一ノ谷の戦いのときです。平敦盛にとっては初陣でしたが、「源義経」(みなもとのよしつね)の奇襲作戦によって平氏勢は総崩れ。平敦盛も海上の船へ逃れようと馬を走らせ、戦場からの離脱を試みる他ありませんでした。しかし、源氏勢の勇将「熊谷直実」(くまがいなおざね)に「卑怯者」と呼び止められ、その場で対峙。一騎打ちとなり、わずか17歳で命を落とすことになるのです。平敦盛の懐中には愛笛・青葉が忍ばされていたため、のちに熊谷直実の手で父・平経盛のもとへ届けられたと言われています。
武将としての活躍をほとんど見せなかった平敦盛ですが、その名は意外な形で後世に残りました。熊谷直実が平敦盛の勇姿を人々に伝えたことが発端となり、平氏滅亡の「徒花」(あだばな:実を伴わない物事)として語り継がれるようになったのです。
熊谷直実は平敦盛を討ち取る瞬間、自身の息子と同年代であることを悟って一瞬躊躇しました。しかし、平敦盛は名を名乗らず、首の価値が高いことだけを伝え、自身の首を早く取るよう所望します。その言葉を聞いた熊谷直実は、一層命を助けたい気持ちに駆られたものの、すでに周囲は源氏勢によって取り囲まれていたため、苦渋の思いで平敦盛の首を落としました。この経験から、のちに熊谷直実は武将として生きることに嫌気が差し、出家を決意。平敦盛を篤く供養したと言われています。
その後、平氏一門が「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で滅亡すると、平氏一門の栄枯盛衰は、軍記物語「平家物語」(へいけものがたり)にまとめられました。そのなかで平敦盛の討死は、名場面のひとつとして人気を博します。すると室町時代には能の演目「敦盛」として作品化。さらに、江戸時代には歌舞伎の演目「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)にも取り上げられ、広く親しまれるようになったのです。
なお、様々な伝統芸能に取り上げられた平敦盛討死の名場面ですが、特に知名度を高めたのは「織田信長」でした。「幸若舞」(こうわかまい:拍子を付けながら語りとともに舞う曲舞[くせまい]の一種)の演目「敦盛」を好み、とりわけ「人間五十年、下天(げてん)のうちをくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり」の一節は、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)の出陣に際して歌ったとされています。これは「人の世における50年は、天界の時の流れと比べると極めて短く、夢や幻のように儚いもの」という意味です。