「九条兼実」(くじょうかねざね:藤原兼実[ふじわらかねざね]とも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての有力貴族です。「後白河法皇」(ごしらかわほうおう77代・後白河天皇が譲位後に出家した際の尊号)に仕えながらも、鎌倉幕府の祖「源頼朝」(みなもとのよりとも)に近いという立場でした。しかし後白河法皇の崩御(ほうぎょ:天皇・上皇が亡くなること)後は、ライバルの公卿「源通親」(みなもとのみちちか:村上源氏の嫡流)との権力争いに破れ、1196年(建久7年)に失脚。この事件を「建久七年の政変」(けんきゅうしちねんのせいへん)と呼びます。これによって、鎌倉幕府と朝廷の関係は一気に悪化していきました。
九条兼実
九条兼実は名門・藤原北家の出身でしたが、長く出世から遠ざかっていました。
ところが1186年(文治2年)、源頼朝の推挙を受け、「摂政」(せっしょう:幼い天皇を補佐する、朝廷における最高位のひとつ)に就任。
この日から、九条兼実は源平の争乱で疲弊した朝廷を建て直すための活動を開始します。九条兼実が理想としたのは、「律令制」(りつりょうせい:刑法である律と、民法・行政法である令によって天皇中心の政治を行う体制)の復活でした。
しかし、それは当時の後白河法皇が専制政治を行った「院政」(いんせい:上皇が天皇に代わって政権を担う体制)とは正反対の体制だったのです。つまり、反・後白河法皇という立場にあった九条兼実は、最初から源頼朝と利害が一致していたということになります。
これで理想的な政治に着手できると思ったところで、九条兼実に強力なライバルが出現。それが公卿・源通親です。源通親は、後白河法皇の后(きさき)であった「丹後局」(たんごのつぼね)に接近し、自分の娘を82代「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)へ嫁がせ、自らは天皇の後見人になって権力を握ろうと考えました。
そして、もうひとり丹後局に接近したのが、源頼朝。源頼朝は、自分の娘「大姫」(おおひめ)を後鳥羽天皇の后にするため、朝廷へ取り入ろうとしていたのです。実は九条兼実も後鳥羽天皇へ娘を差し出していましたから、九条兼実と源頼朝は、ライバル関係になってしまったのです。こうして源頼朝と九条兼実の仲は急速に冷えていきました。
1195年(建久6年)に、再び源頼朝が上洛したときの様子が、九条兼実の日記「玉葉」(ぎょくよう)に「今回は雑談のみ。それに土産がやけに少なかったのはどういうことだ」と記されています。この頃には、もう源頼朝の心は九条兼実のもとになかったのです。
その決定的な証拠が、征夷大将軍職の返上でした。上洛の前後に、源頼朝は征夷大将軍の官位を朝廷に返上しているのです。これは、九条兼実が苦労して推挙した官位をあえて断り、それを手土産に丹後局と源通親に接近したものと考えられます。
源頼朝という後ろ盾を失ったことによって九条兼実の権威は失墜。そして1196年(建久7年)、九条兼実は源通親によって、関白の官位を奪われてしまいました。これが建久七年の政変です。
そのあと、九条兼実が政治の世界に復帰することはありませんでした。しかし九条兼実が1164年(長寛2年)から、1200年(正治2年)までの36年間にわたって書き続けた日記・玉葉は、武士が台頭した時代の研究を行う上で、極めて重要な史料となっています。
また九条兼実の子孫は、「五摂家」(ごせっけ:藤原北家において摂政・関白を輩出した、近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家を指す)のひとつ「九条家」を起こし、近代まで摂政・関白の官位を一族で独占し続けました。