「藤原経清」(ふじわらのつねきよ)は、陸奥国(現在の東北地方北西部)で力を付けた平安時代中期の豪族です。もともとは朝廷や、河内国(現在の大阪府東部)に根拠地を置いていた河内源氏(かわちげんじ)に仕えていましたが、「前九年の役」(ぜんくねんのえき)で反旗を翻しました。前九年の役とは、1051~1062年(永承6年~康平5年)にかけて東北地方で断続的に勃発した合戦です。奥六郡(おくろくぐん:現在の岩手県奥州市、盛岡市)を治めていた豪族「安倍頼時」(あべのよりとき)と、その嫡男「安倍貞任」(あべのさだとう)が朝廷と対立。藤原経清は最初のうちは朝廷側として参戦するも、途中で安倍氏の味方をすることになりました。藤原経清の生涯について詳しく見ていきます。
安倍氏の東北情勢
藤原経清は、平安時代中期に陸奥国で勢力をふるっていた豪族で、藤原北家(ふじわらほっけ:藤原不比等から分かれた一族)の流れをくむ、「藤原頼遠」(ふじわらのよりとお)を父に持ちます。下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部)の出身である藤原頼遠が陸奥国に住むようになり、藤原経清の代になると荘園を経営するなど、着実に力を付けていきました。
藤原経清の生まれ年は不明ですが、長く河内源氏に仕えており、長久年間(1040~1044年)には河内源氏から亘理郡(わたりぐん:現在の宮城県亘理郡)を拝領。官僚として陸奥国府の「多賀城」(たがじょう)に勤務していたと考えられています。そしてこの頃に、奥六郡を牛耳っていた安倍氏の棟梁・安倍頼時の娘と結婚しました。1056年(天喜4年)には、嫡男「藤原清衡」(ふじわらのきよひら)が誕生。藤原清衡は、のちに奥州藤原氏の初代当主となる人物です。
藤原経清は、安倍頼時の娘と結婚以後、荘園経営や寺社建立などを行い、財力と勢力を強めていきます。そして、転機が訪れるのが前九年の役であり、この戦いをきっかけに仕えていた河内源氏に対して反旗を翻したのです。
藤原経清
前九年の役は、有力豪族の安倍氏と朝廷との間で繰り広げられた合戦。この戦いにおいて、藤原経清はキーマンとしての役割を果たすことになります。
11世紀の半ば頃より、安倍氏が朝廷への年貢を滞納した上に公領内へ進出したため、朝廷は1051年(永承6年)に陸奥守(むつのかみ:東北地方の軍事を担当する職務)の「藤原登任」(ふじわらのなりとう)に命じて、数千の兵を安倍氏の領地へ送り込みました。戦闘が玉造郡鬼切部(たまつくりぐんおにきりべ:現在の宮城県大崎市)で展開されたことから、このできごとは「鬼切部の戦い」(おにきりべのたたかい)と呼ばれます。最終的には安倍氏が勝利。敗れた陸奥守・藤原登任は更迭され、陸奥守の後任には河内源氏2代目棟梁「源頼義」(みなもとのよりよし)が就任しました。
その後、安倍氏は一時的に朝廷に従属しますが、再び安倍氏と朝廷との戦いが勃発。1056年(天喜4年)に、源頼義の部下が阿久利川の河畔において野営中、何者かに襲われた「阿久利川事件」(あくりかわじけん/あくとかわじけん)が起きます。この阿久利川事件では源頼義が、犯人と目される安倍貞任に出頭を命令しましたが、安倍貞任が拒否。それをきっかけとして、安倍氏と朝廷の戦闘が再燃したのです。その際、藤原経清は偽情報を流して源頼義の軍を翻弄し、安倍氏側に付いたとされています。この藤原経清の反逆により、朝廷側は戦いをなかなか収束できず、戦いは長期化しました。
阿久利川事件をきっかけに再燃した戦いのなか、1057年(天喜5年)に安倍氏側の棟梁・安倍頼時が伏兵により殺されます。それ以降、阿久利川事件の発端となった安倍貞任が、安倍軍を統率。一方で、朝廷側は形勢を一気に有利に進めるべく、出羽国(現在の山形県、秋田県)の有力豪族・清原氏を味方に付けました。
清原氏の参戦によって戦局は朝廷軍に大きく傾き、「厨川柵」(くりやがわのさく:岩手県盛岡市)や「嫗戸柵」(うばとのさく:岩手県盛岡市)といった安倍氏の拠点が相次いで陥落。1062年(康平5年)には、ついに安倍貞任が討ち取られます。そして、藤原経清も朝廷側に捕らえられ、最後は斬首され生涯を終えました。なお、源頼義は裏切った藤原経清に相当な恨みを持っていたとされ、斬首の際に苦痛を長引かせるために、あえて切れ味の悪い錆びた日本刀で鋸挽きにしたと言われています。