どうする家康に関連する人物

松平忠政
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松平忠政

松平忠政

「松平忠政」(まつだいらただまさ)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)の異母兄とされている人物です。

父は「松平広忠」(まつだいらひろただ)、母は大給松平家(おぎゅうまつだいらけ:十八松平家のひとつであり、三河国大給[みかわのくにおぎゅう:現在の愛知県豊田市]を本拠地とした)2代当主「松平乗正」(まつだいらのりまさ)の娘「お久」(おひさ)。

母であるお久は、「於大の方」(おだいのかた:徳川家康の生母)が「岡崎城」(おかざきじょう:愛知県岡崎市)の松平広忠に輿入れした際、松平忠政を連れて三河国桑谷村(みかわのくにくわがいむら:現在の愛知県岡崎市)へ移ったと言われています。

そののち、徳川家康と同日に松平忠政が生まれますが、当初から僧侶となることが決定。法名は「頴新」(えいしん)・「恵新」(けいしん)、のちに「樵暗恵最」(しょうあんえさい)を名乗ります。

1562年(永禄5年)、徳川家康は、父・松平広忠のために「広忠寺」(こうちゅうじ:愛知県岡崎市)を建立。松平忠政(樵暗恵最)が初代住職となりました。広忠寺境内には、お久・松平広忠・松平忠政の墓があります。

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小姫

小姫
「小姫」(おひめ)は、「織田信長」(おだのぶなが)の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)の長女です。1585年(天正13年)頃に誕生。生後間もなく「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の養女となり、5歳になると、のちに江戸幕府2代将軍となる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と婚約。

小姫

糸姫

糸姫
「糸姫」は、1571年(元亀2年)に「蜂須賀正勝」(はちすかまさかつ:別名・蜂須賀小六[はちすかころく])の次女として誕生します。蜂須賀正勝は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の家老(かろう:重臣)であったことから、糸姫自身も豊臣秀吉と深いかかわりがありました。

糸姫

生駒親正

生駒親正
「織田信長」(おだのぶなが)による「美濃攻め」(みのぜめ)にも加わった「生駒親正」(いこまちかまさ)は、多くの戦に加わり活躍した武将です。「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の「三中老」(さんちゅうろう:重臣らの意見が合わないときの仲裁役)のひとりでもあり、豊臣秀吉が朝鮮出兵をした「文禄の役」(ぶんろくのえき)では朝鮮半島へ渡っています。さらに生駒家は「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)の際、親子がそれぞれ東軍と西軍に分かれたことで、「徳川家康」(とくがわいえやす)が勝利してからも家禄(かろく:給与)を減らすことなく乗り切りました。巧妙な策略家もあった生駒親正について紹介します。

生駒親正

中村一氏

中村一氏
「中村一氏」(なかむらかずうじ)は戦国時代に大健闘するも、あまり名前が知られていない武将です。「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に仕えていましたが、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)に参加できなかった上、嫡男も若くして死去してしまい、一族が途絶えてしまったことがその理由。しかし、複数の城主となった経歴があり、合戦の記録が絵巻物に描かれるなど武将としては能力の高い人物でした。中村一氏がどのような人生を送ったのか、活躍の逸話なども踏まえて解説します。

中村一氏

堀尾吉晴

堀尾吉晴
「堀尾吉晴」(ほりおよしはる)は、「織田信長」・「豊臣秀吉」・「徳川家康」という3人の天下人に仕え、重用された戦国大名です。通称を「茂助」(もすけ)と言い、その柔和な容姿から普段は「仏の茂助」と呼ばれていましたが、ひとたび戦場に出ると獅子奮迅の働きを見せたことから、「鬼茂助」とも呼ばれました。堀尾吉晴の生涯と逸話についてご紹介します。

堀尾吉晴

西郡局(蓮葉院)

西郡局(蓮葉院)
「西郡局」(にしのこおりのつぼね)は、「徳川家康」の側室となった女性です。「蓮葉院」(れんよういん)という別名でも知られています。今川家(いまがわけ)に従属する「上ノ郷城」(かみのごうじょう:愛知県蒲郡市)の城主「鵜殿長持」(うどのながもち)の娘として、1548年(天文17年)に誕生。

西郡局(蓮葉院)

西郷局(竜泉院)

西郷局(竜泉院)
「西郷局」(さいごうのつぼね)は、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の生母。西郷局は最初の夫と死別したのち、「徳川家康」の側室として迎え入れられ、尽くします。しかし、側室となってからわずか十数年後、幼い子どもを残して亡くなってしまったのです。周囲の侍女・家臣にも分け隔てなく接し、弱者を保護した西郷局の死は多くの人々に惜しまれました。西郷局の生涯とその人柄、周囲へ及ぼした影響について解説します。

西郷局(竜泉院)

於竹(良雲院)

於竹(良雲院)
「於竹」(おたけ)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)の側室であった女性のひとりです。院号(いんごう:戒名)は「良雲院」(りょううんいん)です。甲斐武田家(かいたけだけ)家臣「市川昌永」(いちかわまさなが)の娘であったと言われていますが、出自に謎が多く定かではありません。

於竹(良雲院)

下山殿(妙真院)

下山殿(妙真院)
「下山殿」(しもやまどの)は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)の側室であった女性のひとりです。「お都摩の方」(おつまのかた)とも呼ばれた下山殿は、1565年(永禄8年)に武田家(たけだけ)の「武田信玄」(たけだしんげん)に仕える家臣「秋山虎康」(あきやまとらやす)の娘として生まれました。

下山殿(妙真院)

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