於梅(蓮華院)
「於梅」(おうめ)は、1586年(天正14年)に豊臣家(とよとみけ)家臣「青木一矩」(あおきかずのり)の娘として誕生。
1600年(慶長5年)から「徳川家康」(とくがわいえやす)の側室となり、のちに宇都宮藩(うつのみやはん:現在の栃木県宇都宮市)藩主「本多正純」(ほんだまさずみ)の継室となった女性です。
本多正純は当時、江戸幕府の老中(ろうじゅう:江戸幕府の重職)についていましたが、1622年(元和8年)に起こった「宇都宮釣天井事件」(うつのみやつりてんじょうじけん)により、「横手城」(よこてじょう:秋田県横手市)に幽閉(ゆうへい:監禁)されました。
宇都宮釣天井事件とは、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が宿泊予定だった「宇都宮城」(うつのみやじょう:栃木県宇都宮市)の一室に、釣天井(つりてんじょう:天井を釣り上げ、下にいる者へ落として押し殺すようにした罠)を仕掛けたという嫌疑が本多正純へかけられた事件。
これを機に於梅は尼となり、京都を経て1627年(寛永4年)から「梅香寺」(ばいこうじ:三重県伊勢市)へ移ります。1647年(正保4年)に62歳で亡くなるまで梅香寺で過ごし、院号(いんごう:戒名)として「蓮華院」(れんげいん)と名付けられました。