どうする家康に関連する人物

小姫
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「小姫」(おひめ)は、「織田信長」(おだのぶなが)の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)の長女です。1585年(天正13年)頃に誕生。

生後間もなく「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の養女となり、5歳になると、のちに江戸幕府2代将軍となる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と婚約。この結婚は、豊臣家と徳川家の縁組という重要な意味が込められており、「小田原征伐」(おだわらせいばつ)を目前にした豊臣秀吉による政略結婚と考えられています。

しかし、実際には小姫は徳川秀忠と結婚せず、1591年(天正19年)に病死。正確な生年が分かっていないことから享年も定かではなく、亡くなったのは6~7歳頃だったと考えられています。

幼くして亡くなったことから、小姫に関する史実はあまり多くありません。しかし、亡くなった際の法要は、豊臣秀吉が母のために建立した「天瑞寺」(てんずいじ:京都府京都市)で行われたという説があります。この天瑞寺はかつて「大徳寺」(だいとくじ:京都府京都市)という寺院内に建てられた寺でしたが、大徳寺が廃寺となり現在は存在していません。

一方、1812年(文化9年)に編纂された「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ:江戸幕府が編纂した大名・旗本の家系図集)では、小姫は織田姓へ戻って1641年(寛永18年)まで生きたとの記述もあるなど、その生涯についてはいまだに謎が多いのです。

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小姫

小姫
「小姫」(おひめ)は、「織田信長」(おだのぶなが)の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)の長女です。1585年(天正13年)頃に誕生。生後間もなく「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の養女となり、5歳になると、のちに江戸幕府2代将軍となる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と婚約。

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糸姫

糸姫
「糸姫」は、1571年(元亀2年)に「蜂須賀正勝」(はちすかまさかつ:別名・蜂須賀小六[はちすかころく])の次女として誕生します。蜂須賀正勝は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の家老(かろう:重臣)であったことから、糸姫自身も豊臣秀吉と深いかかわりがありました。

糸姫

生駒親正

生駒親正
「織田信長」(おだのぶなが)による「美濃攻め」(みのぜめ)にも加わった「生駒親正」(いこまちかまさ)は、多くの戦に加わり活躍した武将です。「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の「三中老」(さんちゅうろう:重臣らの意見が合わないときの仲裁役)のひとりでもあり、豊臣秀吉が朝鮮出兵をした「文禄の役」(ぶんろくのえき)では朝鮮半島へ渡っています。さらに生駒家は「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)の際、親子がそれぞれ東軍と西軍に分かれたことで、「徳川家康」(とくがわいえやす)が勝利してからも家禄(かろく:給与)を減らすことなく乗り切りました。巧妙な策略家もあった生駒親正について紹介します。

生駒親正

中村一氏

中村一氏
「中村一氏」(なかむらかずうじ)は戦国時代に大健闘するも、あまり名前が知られていない武将です。「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に仕えていましたが、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)に参加できなかった上、嫡男も若くして死去してしまい、一族が途絶えてしまったことがその理由。しかし、複数の城主となった経歴があり、合戦の記録が絵巻物に描かれるなど武将としては能力の高い人物でした。中村一氏がどのような人生を送ったのか、活躍の逸話なども踏まえて解説します。

中村一氏

堀尾吉晴

堀尾吉晴
「堀尾吉晴」(ほりおよしはる)は、「織田信長」・「豊臣秀吉」・「徳川家康」という3人の天下人に仕え、重用された戦国大名です。通称を「茂助」(もすけ)と言い、その柔和な容姿から普段は「仏の茂助」と呼ばれていましたが、ひとたび戦場に出ると獅子奮迅の働きを見せたことから、「鬼茂助」とも呼ばれました。堀尾吉晴の生涯と逸話についてご紹介します。

堀尾吉晴

西郡局(蓮葉院)

西郡局(蓮葉院)
「西郡局」(にしのこおりのつぼね)は、「徳川家康」の側室となった女性です。「蓮葉院」(れんよういん)という別名でも知られています。今川家(いまがわけ)に従属する「上ノ郷城」(かみのごうじょう:愛知県蒲郡市)の城主「鵜殿長持」(うどのながもち)の娘として、1548年(天文17年)に誕生。

西郡局(蓮葉院)

西郷局(竜泉院)

西郷局(竜泉院)
「西郷局」(さいごうのつぼね)は、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の生母。西郷局は最初の夫と死別したのち、「徳川家康」の側室として迎え入れられ、尽くします。しかし、側室となってからわずか十数年後、幼い子どもを残して亡くなってしまったのです。周囲の侍女・家臣にも分け隔てなく接し、弱者を保護した西郷局の死は多くの人々に惜しまれました。西郷局の生涯とその人柄、周囲へ及ぼした影響について解説します。

西郷局(竜泉院)

於竹(良雲院)

於竹(良雲院)
「於竹」(おたけ)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)の側室であった女性のひとりです。院号(いんごう:戒名)は「良雲院」(りょううんいん)です。甲斐武田家(かいたけだけ)家臣「市川昌永」(いちかわまさなが)の娘であったと言われていますが、出自に謎が多く定かではありません。

於竹(良雲院)

下山殿(妙真院)

下山殿(妙真院)
「下山殿」(しもやまどの)は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)の側室であった女性のひとりです。「お都摩の方」(おつまのかた)とも呼ばれた下山殿は、1565年(永禄8年)に武田家(たけだけ)の「武田信玄」(たけだしんげん)に仕える家臣「秋山虎康」(あきやまとらやす)の娘として生まれました。

下山殿(妙真院)

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