明治時代から大正時代にかけて活躍した作庭家「小川治兵衛」(おがわじへえ)は、日本庭園の新たなスタイルを生み出した人物です。「植治」(うえじ)の通称で知られ、主に水の流れや植栽で手腕を発揮。それまで日本庭園には用いられてこなかった雑木や雑草なども活かして、次々と独創的な庭園を造り上げました。また、西洋庭園の要素をいち早く取り入れたことでも知られています。小川治兵衛が手がけた代表的な日本庭園5つについて、小川治兵衛の生涯や、各庭園の特徴などとともに見てみましょう。
南禅寺 水路閣
小川治兵衛は、1860年(万延元年)に山城国(現在の京都府南部)で生まれました。1877年(明治10年)に「植木屋治兵衛」(うえきやじへえ)を営む「6代目小川治兵衛」の養子となり、1879年(明治12年)に家業を相続。小川治兵衛は襲名であり、正式には7代目小川治兵衛と言います。
小川治兵衛が注目を集めたのは、明治時代初期に手がけた作庭が革新的だったためです。最初に称賛を集めたのは「南禅寺」(なんぜんじ:京都市左京区)一帯に造成された別荘地「南禅寺界隈疏水園池群」(なんぜんじかいわいそすいえんちぐん)の造園。京都盆地の東側に位置する「東山」(ひがしやま)を借景にしつつ、琵琶湖疎水を庭園に引き込むことで、独自の景観を造り出したのです。
江戸時代まで、日本庭園は池泉を景観の中心に据えるのが定型でした。しかし、小川治兵衛は、池泉ではなく川を主役にし、水の流れをテーマに作庭。これにより、自然の景観と躍動的な水流のバランスに美を見出しました。代表的な作例としては、「山県有朋」(やまがたありとも)の別邸「無鄰菴」(むりんあん:京都市左京区)などが挙げられます。
さらに、小川治兵衛は、植木屋ならではの植栽技術に、西洋庭園の要素を取り入れ、和洋折衷の日本庭園を造りました。日本ではじめて芝生を庭園に活用するなど、新たな試みを次々と行ったことも大きな功績です。生涯を通じて、主に公爵らの庭園や公共施設などで作庭を請け負い、細部まで徹底的にこだわって、設計だけでなく資材集め、施工、完成後の維持管理まで行いました。こうした作庭・造園に対する姿勢の斬新さも、小川治兵衛が「近代日本庭園の先駆者」と呼ばれる理由です。
平安神宮神苑
「平安神宮神苑」(へいあんじんぐうしんえん)は、「平安遷都千百年祭」の開催を記念して1895年(明治28年)に造られた日本庭園です。平安神宮の「大極殿」(だいごくでん)の周りに、南神苑・西神苑・中神苑・東神苑が作庭され、総面積は約33,000㎡。小川治兵衛はこれらを1895年(明治28年)から段階的に手がけました。
春はベニシダレザクラ、夏はカキツバタとハナショウブ、秋は紅葉など、四季折々の景観が楽しめるのが特徴で、庭園を歩き回りながら自然の営みにふれられる構造になっています。また、東神苑にそびえる「泰平閣」(たいへいかく:橋殿[はしどの]とも言う)の背後に、東山のひとつである華頂山(かちょうざん:京都市東山区)を重ねるなど、借景の手法も導入。景観をより引き立たせる工夫が随所に施された庭です。
とりわけ小川治兵衛の繊細な仕事ぶりがうかがえるのが、多彩な飛石。例えば中神苑に設けられた「臥龍橋」(がりゅうはし)には、天正年間(1573〜1592年)に造られた三条大橋と五条大橋の脚を再利用した「沢飛石」(さわとびいし:池や川を渡るために置かれた飛石)が配されています。あえて左右に大きく折れながら石が置かれており、歩くたびに異なる景観が楽しめる構造です。
「對龍山荘庭園」(たいりゅうさんそうていえん)は、小川治兵衛が手がけた南禅寺界隈疏水園池群の代表作とされる名庭です。對龍山荘自体は1896年(明治29年)に薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)出身の官僚及び実業家「伊集院兼寛」(いじゅういんかねひろ)が建設しましたが、1905年(明治38年)に小川治兵衛が庭園を改修。池泉や水の流れに「露地」(ろじ:茶庭[ちゃてい]とも言う)や「滝石組」(たきいしぐみ:自然の滝を表現した石組)を加えた、壮大な空間を造り上げました。
もっとも特徴的なのは、東山の借景を際立たせるために施された細やかな意匠です。約1,800坪にも及ぶ広大な敷地を活かし、大池を中心とする平地と、一段高くしつらえた築山からなる上下二段構成を採用。さらに巧みな植栽によって、遠方にそびえる山の木々と庭木が連続して見えるよう設計しました。その景観の美しさは、1909年(明治42年)に発行された明治時代の庭園写真集「京華林泉帖」(けいかりんせんちょう)で「風流清雅にして、その構造にもっとも心尽くしたるを見る」と絶賛されています。
京都市京セラ美術館 庭園
1933年(昭和8年)に「大礼記念京都美術館」として開館し、2019年(平成31年/令和元年)に改名された「京都市京セラ美術館」には、小川治兵衛の日本庭園が併設されています。作庭は1909年(明治42年)で、琵琶湖疎水を園内に引き入れ、庭木の刈り込みによる奥行きの演出や芝生の活用、「切石橋」(きりいしばし)に「橋添石」(はしぞえいし)を加えるなどの意匠により、自然と作為が調和した見事な美景が生み出されました。
特徴的なのは、「護岸石組」(ごがんいしぐみ:池や流れの水際に並べられた石組)の使い方です。江戸時代中期以降は丸みのある石を用いるのが一般的でしたが、京都市京セラ美術館の庭園では、あえて重厚感のある角張った石を採用。古式ゆかしい風情が添えられています。有名な日本庭園には珍しく、24時間開放されているため、自由な時間帯に訪れられるのも魅力です。
「京都平安ホテル庭園」(きょうとへいあんホテルていえん)は、もともと江戸時代後期に公家屋敷の庭園として造営されました。大正年間(1912〜1926年)に小川治兵衛が、石橋や滝、築山などを配した日本庭園へ改修。1980年(昭和55年)に「平安会館」(京都平安ホテルの前身)が開業した際に再改修され、ホテル内の名庭として親しまれるようになりました。
特に見応えがあるのは、水の流れを最大限活かした庭園設計です。500坪の敷地内には滝、池泉、川として下っていく水流があり、随所に苔むした岩場や重厚な庭石、竹造りの風雅な「四阿」(あずまや)などが点在。季節ごとに彩りを添える紅葉やサツキ、寒椿などの植栽もバランス良く配置されています。2023年(令和5年)のホテル廃業に伴って、庭園は一般公開終了となりましたが、アメリカの日本庭園専門誌「The Journal of Japanese Gardening」(ザ・ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング:直訳[日本庭園の雑誌])で4位に選出されるほど、世界的に評価の高い日本庭園です。
円山公園
1886年(明治19年)に造られた「円山公園」(まるやまこうえん)は、京都市初の都市公園です。1914年(大正3年)には小川治兵衛の設計により池泉回遊式の日本庭園が造られ、現在の姿になりました。
東山の借景や飛石、多彩な植栽など、園内随所に小川治兵衛ならではの意匠が見られますが、特に際立っているのは水の流れです。滝から緩やかに流れ落ちる水は、川に置かれた景石によってせせらぎの音を生んでいます。また川や池泉の石組に沿って緑が植えられ、その景観は里山の渓流さながらです。春にはシダレザクラの名所として花見客が集う円山公園は、自然の状態に近い作庭が、より情趣を引き立てています。