昭和時代に独創的な日本庭園を数多く手がけた「重森三玲」(しげもりみれい)は、枯山水庭園を復興させた人物です。日本画や茶道、華道への造詣を活かし、モダンを取り入れた作風を生み出しました。また、既存の日本庭園を徹底的に調査し、庭園研究家としても活躍。重森三玲の生涯とともに、重森三玲が手がけた代表的な日本庭園を5つ見てみましょう。
重森三玲は、1896年(明治29年)に岡山県の裕福な農家に生まれました。出生時の本名は「重森計夫」(しげもりかずお)。「三玲」の名は、フランスの画家「ジャン=フランソワ・ミレー」から影響を受け、自ら改名したものです。
当初は画家を志して日本美術学校に入学しましたが、自身の絵画がほとんど評価されなかったことから断念。その後は華道や茶道の修得に励み、1929年(昭和4年)には仲間とともに「新興いけばな宣言」を起草しました。この頃から文化人としての評価を高めた重森三玲は、日本古来の美意識の探求を開始。独力で本格的に日本庭園を学び、日本庭園の研究会を設立します。全国約500の日本庭園を巡って実測調査を行い、1939年(昭和14年)には「日本庭園史図鑑 全二十六巻」を発表。日本庭園の歴史や技術を体系的にまとめたことで、日本庭園研究の第一人者としての地位を確立すると、1976年(昭和51年)には、長男の「重森完途」(しげもりかんと)と協力して「日本庭園史大系 全三十三巻(別巻二巻)」を出版しました。
作庭では、枯山水庭園を土台に、西洋の「整形式庭園」の手法を統合。古さの中に新しさを見出すことで、独自のスタイルを構築します。重森三玲の美意識は「永遠のモダン」と称され、昭和時代以降の作庭に多大な影響を及ぼしました。
北野美術館庭園
「財団法人北野美術館庭園」(ざいだんほうじんきたのびじゅつかんていえん)は、「北野美術館」内に設けられた枯山水庭園です。美術館自体は1968年(昭和43年)に開館しましたが、庭園は1965年(昭和40年)に重森三玲が設計。正方形に近い空間に海景が描かれ、芝生を敷いた築山にはクロマツ、庭園の背景には長野市のシンボル「春山」(はるやま)が借景としてそびえています。
象徴的な意匠は、白砂の周囲をかたどる「州浜」(すはま:玉石などで曲線を描いて浜辺や入り江を表す手法)です。三段構成になっていて、一番外側が鉄錆色の「丹波鞍馬石」(たんばくらまいし)、真ん中が平らに加工した自然石、一番内側には「網代式」(あじろしき:葦や竹などの薄皮を縦横に編み込んだ漁網のような形式)の青状棒石が敷き詰められています。曲線を主体とするデザインに直線状の模様を加えることで、和洋折衷の趣を表現。さらに州浜のうねりや、白砂内に点在する岩島の配置が、大海の流動性や剛健さを表しているのです。州浜の周りは歩いて回ることもでき、多角的に枯山水の美しさに触れられます。
東福寺 方丈庭園
1236年(嘉禎2年)に創建された「東福寺」(とうふくじ)は、重森三玲の代表作「八相の庭」(はっそうのにわ)が広がっている古刹です。名前の由来は、生涯における8つの主要なできごとを指す「八相成道」(はっそうじょうどう)であり、重森三玲が人生をかけて取り組んだ枯山水庭園であることを示しています。
作庭されたのは「日本庭園史図鑑 全二十六巻」が出版された直後の1939年(昭和14年)です。それまで、東福寺は本殿の修復費用がかさみ、庭園の改修には実費しか捻出できない状況で、庭園は荒廃していました。それでも重森三玲は、東福寺庭園の再興に、「日本庭園史図鑑」で得た知見のすべてを注ぎ込むことを決意し、「龍安寺」(りょうあんじ:京都市右京区)の石庭を凌ぐ傑作を生み出すべく作庭に取りかかったのです。
庭園の構成は、「方丈」(ほうじょう:禅宗寺院の住持の居所)を囲むかたちが取られ、南庭・北庭・西庭・東庭を配置。自然の厳しさを表現するため石組は垂直性を強調し、さらには「東司」(とうす:寺のトイレ)を活用するなど前衛絵画の手法まで用いました。特に重森三玲の独創性が光ったのは北庭で、敷石と苔を市松模様に並べて独特のリズムを造り、従来の作庭技法にはない斬新な技法を採用。一躍昭和時代を代表する庭園として注目を集めるようになりました。この東福寺の成功によって、重森三玲は庭園研究家としてだけでなく、作庭家としてもその名をとどろかせることになったのです。
重森三玲邸庭園
「重森三玲邸庭園」(しげもりみれいていていえん)は、1970年(昭和45年)に作庭された枯山水庭園です。もともとは神官(神社の神主)の屋敷が置かれていましたが、邸宅として購入した際に庭園を設計。書院前庭や茶庭、坪庭などが整備されました。重森三玲の没後は重森家が管理を行い、2006年(平成18年)に「重森三玲庭園美術館」として一般公開。重森三玲特有の石組が見られるスポットとして人気を集めています。
見どころは、約150坪と小規模ながら、江戸時代築の書院と青石群、苔むした地表が見られる書院前庭です。また、園内中心部にそびえる「蓬莱島」(ほうらいじま)のそばに「入り舟」と「戻り舟」を表す景石が置かれているのも珍しく、枯山水に物語性を添えています。書院内から望むと、障子戸が額の役割を果たして、絵画のような趣です。
光清寺庭園 心和の庭
1669年(寛文9年)に創建された禅寺「光清寺」(こうせいじ)には、晩年の重森三玲が設計した2つの日本庭園が残っています。方丈前に広がる枯山水「心和の庭」(しんわのにわ)と、境内の入口に設けられた石庭「心月庭」(しんげつてい)です。心和の庭は山号の心和山にちなんで1967年(昭和42年)に造られ、心月庭は1974年(昭和49年)にクロマツが枯死した地に造成されました。
特に壮観なのが心和の庭です。海を表現した白砂と苔むした築山、「阿波青石」(あわあおいし:徳島県で産出される緑泥片岩)のみで構成され、昔ながらの枯山水の発想を踏襲。一方、4つの築山で「心」の字を描いたり、庭園を囲む竹垣にさりげなく「心」の文字をデザインしたりと、独創的な意匠も凝らしています。簡素でありながら豪快さを併せ持ち、かつ日本庭園が本来持つべき象徴性も加味しているのが特徴です。
岸和田城 八陣の庭
「岸和田城」(きしだわじょう)に備わる「八陣の庭」(はちじんのにわ)は、1953年(昭和28年)に重森三玲が設計・作庭を行った枯山水庭園です。中国三国志の英雄「諸葛孔明」(しょかつこうめい)が考案した陣形「八陣法」(はちじんほう)がモチーフ。庭園全体が上・中・下の3段に分かれ、上段の中心部に大将を示す石組が設置されています。その周りには八陣を示す8つの石組が散らされ、各石組から大将の石組を望んだとき、どこから見ても破綻のない造りになっているという意匠です。
また、モチーフのユニークさに負けず劣らず斬新なのが、視点の演出。八陣の庭は、岸和田城の天守閣から見下ろす前提でも造られているのです。通常、庭園は地表からの眺望に特化して作庭されますが、八陣の庭は、俯瞰でしか全体像を把握できないように設計されています。石組の重厚感や組み合わせの美しさは地表から、庭園全体に張り巡らされた幾何学模様は天守閣から、それぞれ楽しめるように計算されているのです。