大正時代から昭和時代にかけて活躍した作庭家「飯田十基」(いいだじゅうき)は、「雑木の庭」(ぞうきのにわ)と呼ばれる独自の様式を生み出した人物です。気取りのない身近な樹木を用いて、里山の雑木林を思わせる景観を作り出しました。飯田十基の生涯や、雑木の庭の特徴、代表作として知られる「等々力渓谷公園 日本庭園」(とどろきけいこくこうえん にほんていえん:東京都世田谷区)の意匠や見どころについて解説します。
等々力渓谷 日本庭園
飯田十基は、1890年(明治23年)に千葉県成田市で生まれました。中学校中退後に拠点を東京へ移し、修業を開始。庭師の「松本幾太郎」(まつもといくたろう)や「岩本勝五郎」(いわもとかつごろう)のもとで腕を磨き、さらには「小庭」(こにわ)の名手として知られた「鈴木次郎吉」(すずきじろきち)に師事して、造園技術を習得しました。一方で、「工手学校」(こうしゅがっこう:現在の[工学院大学]の前身)に通って土木工学を履修。職人として現場で修業を行っただけでなく、学術的な面からも庭園の空間設計を学んでいた点は、のちの飛躍の糧となりました。
飯田十基は1918年(大正7年)に独立し、「飯田造園事務所」を設立。主に一般住宅の作庭などを受注しましたが、造園手法は他の作庭家とは全く異なるものでした。通常、作庭には作庭家の美意識が反映されるため、強い主義主張が込められた空間が生み出されます。それに対して、飯田十基はあくまで周囲の環境や建物との調和を重視し、作庭家の主張が表に出にくい、自然風の庭園を造り出したのです。
やがて飯田十基は、1946年(昭和21年)に設立した「造園会社ガーデナー」や、1957年(昭和32年)に創業した「東京庭苑」などを軌道にのせ、公共造園も数多く担当。作庭の第一人者としての地位を獲得します。同時に後進の育成にも励み、「小形研三」(おがたけんぞう)や「井下清」(いのしたきよし)などの著名な造園家も次々と輩出したのです。
飯田十基が経営する飯田造園事務所では、社内ベンチャーや独立起業を強く推奨しており、多くの弟子が集まりました。飯田造園事務所では、人材を弟子と職人に分け、弟子が事務所所属中に手がけた仕事は、弟子自身の作品として認定される制度が存在。さらに、会社を通さずに仕事を請け負うことも許されており、その際、事務所内の職人に作業を依頼することも許容されていました。
晩年、飯田十基は日本造園士会理事長や日本庭園協会理事長となり、文化財庭園の維持管理や造園業に携わる人々への技術指導などを推進。1977年(昭和52年)に亡くなるまで、日本庭園の発展に尽くしました。作庭における新たな境地を開拓しただけでなく、業界全体の地位確立にも大きな功績を残した人物なのです。
飛鳥山公園・渋沢史料館
飯田十基の代名詞とも言える「雑木の庭」は、野山に自生する木々や山野草を用いて庭園を造り上げる手法を指します。通常、日本庭園にはサクラやタケなど、単体でも見映えのする樹木を用いるのが一般的ですが、雑木の庭では、主にクヌギやコナラなど、素朴な風合いの落葉樹が中心。庭を造る場所の周辺に茂る木々になじむよう、あえて植栽が施されるのです。また、作庭の際、庭のある場所にもともと自生している樹木は伐採し、新たに植栽するのが通例でしたが、雑木の庭ではあえて既存の木々を保存しました。
この美意識は、飯田十基の修業時代の体験が影響したと言われています。当時飯田十基が行った庭園整備のうち、既存の庭木を伐採して高級庭園樹のマキやマツに植え替えた「山内侯爵邸」(やまのうちこうしゃくてい:現在の東京都渋谷区)の庭園よりも、もともとあった雑木林を活用して作庭した「渋沢栄一邸」(しぶさわえいいちてい:現在の渋沢栄一飛鳥山邸跡[東京都北区])の庭園の方が、美しいと感じたのです。そこから飯田十基は、より雑木が活きる手法を模索。樹木を密集させながらも高木と低木を組み合わせ、立体感のある美を生み出しました。
やがて飯田十基の雑木の庭は、庭園業界の大きな潮流となり、特に1964年(昭和39年)の「東京オリンピック」以降は多く作られるようになります。公共施設の庭園や公園の多くが雑木を活用し、自宅に雑木の庭を造る愛好家が増えたためです。
多摩川の支流・谷沢川の流域に広がる等々力渓谷は、東京23区内唯一の自然渓谷として知られています。その最奥部に設けられている「等々力渓谷公園 日本庭園」は、東急大井町線「等々力駅」を起点に渓谷沿いの小道を15分ほど歩いた地にあり、散策の見どころと休憩所として人気です。
1933年(昭和8年)、「東京風致地区条例」(とうきょうふうちちくじょうれい:東京の自然環境を保持するための条例)によって多摩川風致地区が指定され、等々力渓谷一帯を整備。まずは1936年(昭和11年)に谷沢川沿いの遊歩道が作られ、その後、1973年(昭和48年)に日本庭園が造られて、翌年の1974年(昭和49年)に等々力渓谷公園が開園しました。
作庭にあたって飯田十基は、庭園内のシラカシやケヤキ、ムクノキなどの樹木を極力伐採せずに活かし、等々力渓谷から続く景観の連続性を表現。また、庭園内に設けた池泉はあえて小さなサイズにし、渓谷の斜面を活かした「滝石組」(たきいしぐみ:自然の滝を表現した石組)や小川に見立てた水流を水辺の主役に設計します。園内に配された景石にも自然石が用いられ、庭木はほとんど刈り込みを施しませんでした。等々力渓谷に自生する山野草が、苑路沿いの至る所に見られます。
その一方で、園内中心部に建てられた書院では、日本の伝統的な作庭技術を随所に採用。「切石」(きりいし:加工して切り出した石)と自然石を交互に配置することで独特の格調を生み出し、日本庭園が持つ風趣をさり気なく添えています。また、自然石を用いた飛石も凹凸が分かるように地面から露出させ、存在感を強調しました。
なお、書院は休憩所として開放されているため、セルフサービスのお茶を飲みながら庭園の景観をのんびり楽しめます。室内には等々力渓谷の紹介パネルなども展示されており、格式張らずに休息ができる環境です。等々力渓谷とセットで楽しめるように設計されている点も、飯田十基の作庭の巧みさと言えます。