鎌倉時代末期から室町時代を生きた禅僧「夢窓疎石」(むそうそせき)は、日本最古の作庭家と言われることもある人物です。庭園の外に広がる風景を「借景」(しゃっけい)として活用するなど、新しい作庭技術を考案。日本庭園のみならず、日本人の美意識にも大きな影響を及ぼしました。夢窓疎石が造り上げた日本庭園は、数多く現存しています。夢窓疎石の人物像と、代表的な作例について見ていきましょう。
建仁寺
夢窓疎石は、1275年(建治元年)に伊勢国(現在の三重県北中部)で生まれました。皇族の血を引いていたとされ、幼少期に甲斐国(現在の山梨県)へ移住。9歳で「平塩寺」(へいえんじ:山梨県西八代郡市川三郷町)に入門し、「天台宗」(平安時代に最澄[さいちょう]によって伝えられた仏教)の教えを学びました。
その後、「建仁寺」(けんにんじ:京都市東山区)や「浄智寺」(じょうちじ:神奈川県鎌倉市)で「臨済宗」(りんざいしゅう:禅宗の一派)の禅僧となります。やがて時の権力者である96代「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)や「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の目に留まり、「南禅寺」(なんぜんじ:京都市左京区)、「西芳寺」(さいほうじ:京都市西京区)などの住職を歴任しました。
数々の名刹に招かれて禅の教えを説く傍ら、全国各地に新たな寺院を開山。その間、夢窓疎石は、禅宗の理想世界をまとめた中国の仏教書「碧巌録」(へきがんろく)や中国の名僧「亮座主」(りょうざしゅ)の説話の要素を日本庭園に反映させようと力を注ぎました。
こうして誕生した寺院が、世界遺産の「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)や西芳寺などです。それらの庭園の洗練された作風は大きな反響を呼び、やがて日本庭園造りの基礎となります。庭園外の風景を取り込む借景、寺院内を上段と下段に分けてデザインする上下二段構造、池泉に中島をひとつだけ築く手法などが代表例です。また、「侘び」(わび)、「寂び」(さび)、「幽玄」(ゆうげん)の美意識も庭園に反映し、以降の作庭に大きな影響を及ぼしました。
夢窓疎石は生涯を通じて多くの弟子達を育て上げ、「京都五山」(きょうとござん:京都にある臨済宗の五大寺)における最大派閥を造り上げます。その功績から、生前から死後に至るまで計7人の天皇や上皇から、7度も「国師号」(こくしごう:朝廷から贈られた称号)を下賜されました。夢窓疎石は、作庭を通じて禅の教えを世に広めた人物であり、その具体的手法が、日本の作庭技術の源流になったのです。
天龍寺
天龍寺は、1343年(康永2年/興国4年)に足利尊氏が建立した寺です。後醍醐天皇の菩提を弔うことが目的で、開山は夢窓疎石。さらに庭園は1345年(康永4年/興国6年)頃に夢窓疎石自ら手がけ、「曹源池」(そうげんち)を中心に据えた回遊式庭園が誕生しました。
大きな特徴は、借景の技法が用いられていることです。大堰川(おおいがわ)の先に広がる嵐山や、庭園西に位置する亀山が景観に組み込まれ、曹源池の美しさを際立たせる造りになっています。また、下段に曹源池、上段に石庭を設けた二段構成が取られているため景観が立体的。特に春の桜や紅葉の時期は色彩美が加わり、いっそう風趣に富んだ眺めが楽しめるのです。
その他、「石組」(いしぐみ:石を組み合わせて配置すること)の巧みさも天龍寺庭園ならではの魅力。例えば、曹源池の奥に2枚の巨岩を配して「龍門の滝」(りゅうもんのたき:登龍門を意味する滝)とし、本来滝の下に配す「鯉魚石」(りぎょせき)をあえて滝の横に据えることで、龍へ化ける途中の姿が表現されています。また、滝周辺は「荒磯」(あらいそ:海景表現のひとつ)によって荒々しさを創出。曹源池や借景の静けさと対照になっています。こうした繊細な構成が多数盛り込まれていることから、天龍寺庭園は日本庭園における最高傑作のひとつに数えられているのです。
西芳寺
西芳寺は、731年(天平3年)に高僧「行基」(ぎょうき)が創建した寺院です。もともとは湧水の美しさや背後の山の景観に定評があり、皇族出身の「真如入道親王」(しんにょにゅうどうしんのう)などが草庵を結んだ地でしたが、建武年間(1334~1338年)に荒廃。そこで、夢窓疎石が1339年(暦応2年/延元4年)に招かれ、禅宗寺院として再興されたのです。その際に黄金池が掘られ、その周りに建物を建築。現在の西芳寺庭園の原型が造られました。
夢窓疎石は、西芳寺の境内の一角に洪隠山(こういんざん)を造設。斜面に石組を行い、夢窓疎石が敬愛する亮座主の説話を再現しました。この試みが、日本における枯山水の起源とされています。
なお、現在西芳寺は「苔寺」(こけでら)の異名で知られていますが、夢窓疎石が手がけた時代には苔はありませんでした。庭園が苔で覆われるようになったのは、寛永年間(1624~1644年)と元禄年間(1688~1704年)に起こった2度の洪水が原因。江戸時代末期に、現在のような苔に覆われた景観が形成されたと言われています。
瑞泉寺
瑞泉寺は、1327年(嘉暦2年)に夢窓疎石が創建しました。山号は「錦屏山」(きんぺいさん)。学問の拠点として栄えた古刹で、庭園の背後に建てられた「徧界一覧亭」(へんかいいちらんてい)は、鎌倉の禅僧達によって「五山文学」(ござんぶんがく)の拠点として活用されました。
庭園は裏山の岩盤を削って造成された珍しい構造で、別名・岩庭とも呼ばれています。「禅宗寺院庭園」(ぜんしゅうじいんていえん)の一種ですが、のちに誕生する庭園様式「書院造庭園」(しょいんづくりていえん)の原型としても有名です。岩盤がむき出しの造りや、下段の池庭と上段の徧界一覧亭の庭園が二段構造になっていることなどが特徴。なお、夢窓疎石が手がけた日本庭園の傑作・西芳寺庭園は、瑞泉寺庭園で用いられた手法や構造がもとになったと言われています。
恵林寺
「恵林寺」(えりんじ)は、1330年(元徳2年)に夢窓疎石が開山した臨済宗の名刹です。「応仁の乱」(おうにんのらん)で荒廃したものの、戦国時代に「武田信玄」の手によって再興。現在見られる庭園は、江戸時代に「柳沢吉保」(やなぎさわよしやす)が改修した姿とされていますが、その地割りは夢窓疎石の時代に築かれました。
特徴は、「滝石組」(たきいしぐみ:滝を表現した石組)や中島、出島が直線的に並んでいる景観。特に滝石組は三段落としで造成され、峻険さが際立っています。また、築山の頂上部には「須弥山石組」(しゅみせんいしぐみ:仏教やヒンドゥー教で世界の中心にあるとされる想像上の山を模した石組)も存在。独特の奥行きや立体感が演出されているのも、恵林寺庭園の魅力です。
永保寺
「永保寺」(えいほうじ)は、美濃国(現在の岐阜県南部)の守護大名「土岐頼氏」(ときよりうじ)の援助を受けた夢窓疎石が、1313年(正和2年)に創建した寺院です。現在国宝に指定されている観音堂が最初に庵として結ばれ、その眼前に臥龍池を中心とした日本庭園が造られました。
最大の特徴は、自然の地形を巧みに活かしている点です。特に梵音巌(ぼんのんがん)と称される岩山が存在感を放ち、頂上部に建つ六角堂、岩盤を流れ落ちる「梵音の滝」、そして中島に架かる「無際橋」(むさいきょう)と相まった光景は、水墨画を思わせる幽玄さをたたえています。平安時代に普及した「浄土式庭園」(じょうどしきていえん)の面影を色濃く残す禅宗寺院庭園としても貴重です。