日本庭園の発展は、各時代に活躍した作庭家の試行錯誤によって推し進められました。禅僧で歌人でもあった作庭家「夢窓疎石」(むそうそせき)、「露地」(ろじ:茶庭[ちゃてい]とも言う)を生み出した「千利休」、「綺麗寂び」と呼ばれる洗練された美意識を追求した「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)などが、庭園文化を牽引。また、明治時代以降は「小川治兵衛」(おがわじへえ)、「重森三玲」(しげもりみれい)、「飯田十基」(いいだじゅうき)らが独自の境地を切り拓きました。日本庭園史を語る上で欠かせない6名の生涯と、手がけた庭園の特徴を紹介します。
西芳寺
日本最古の作庭家と言われることもあるのが、鎌倉時代末期から室町時代初期にかけての臨済宗(りんざいしゅう:栄西[えいさい]が開いた禅宗の一派)の禅僧・夢窓疎石です。1275年(建治元年)に生まれ、「建仁寺」(けんにんじ:京都市東山区)の「無隠円範」(むいんえんぱん)などに師事。臨済宗を学び、禅僧として頭角を現しました。96代「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)をはじめ、7人の天皇・上皇から7度にわたって「国師号」(こくしごう:朝廷から贈られた称号)を下賜された人物でもあります。
夢窓疎石の業績のうち、特に後世に影響を及ぼしたのは作庭です。「侘び・寂び・幽玄」(わび・さび・ゆうげん)の3つが美の基本であることを提唱し、その影響は日本庭園に留まらず、日本人が持つ伝統的な美意識の確立にもつながりました。また、庭を擁する寺を上段と下段の2段に分けてデザインする上下二段構成や、背後の山を「借景」(しゃっけい)として用いる、池泉に中島をひとつだけ設けるなど、様々な技法を作庭に導入。夢窓疎石の代表作には、世界遺産にも選ばれている「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)の曹源池庭園(そうげんちていえん)や、苔寺(こけでら)として知られる「西芳寺」(さいほうじ:京都市西京区)の庭園が有名です。こうした名庭園には、石や砂で水を表現する枯山水(かれさんすい)が用いられ、後世の日本庭園に大きな影響を与えることとなります。
手水鉢(つくばい)
茶の湯を芸術の域まで高めたことから「茶聖」(ちゃせい)とも称される千利休は、茶室に備わる庭園として露地を生み出し、茶の湯のみならず日本庭園も大きく発展させました。
千利休は、1522年(大永2年)に和泉国(現在の大阪府南西部)の堺で商人の子として誕生。17歳から茶の湯を習い、のちに「武野紹鴎」(たけのじょうおう)に師事して一流の茶人として名を馳せるようになりました。特に「豊臣秀吉」の茶頭(さどう:茶道で主人に仕える人)に登用されてからは、さらに茶の湯を発展させます。作法だけでなく道具や空間にも美意識を反映させ、その一端として露地が造られるようになったのです。
千利休の美学でもっとも特徴的なのは、人工的な要素を極力削ぎ落とすことでした。露地に用いられる石は色の少ない自然石で、「手水鉢」(ちょうずばち:蹲踞[つくばい]とも言う)や「延石」(えんせき:石を組み合わせた細長い飛石)にも自然石が用いられ、さらには茶室にも簡素な古色を採用。千利休が、派手さを避けて自然な風合いを求め続けたことで、「侘び」(質素なものに美を見出す)・「寂び」(色あせていくものに美を見出す)の美意識が広まったのです。こうした意匠は、現在国宝に指定されている「待庵」(たいあん:京都府乙訓郡大山崎町)などに見ることができます。
二条城 二の丸庭園
千利休の美の精神をさらに発展させ、独自の作庭手法を確立させたのが小堀遠州です。小堀遠州は、1579年(天正7年)に近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)で生まれ、千利休の7人の愛弟子「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりだった「古田織部」(ふるたおりべ)に師事。古田織部が目指した「綺麗寂び」(きれいさび:枯淡のもの寂びしさのなかに華やかさを表現する技法)を発展させ、茶の湯と作庭双方で手腕を発揮しました。
特に1608年(慶長13年)に江戸幕府の作事奉行に就任してからは、数々の名庭園を造り上げています。「二条城」(にじょうじょう:京都市中京区)の二の丸庭園や、「京都仙洞御所」(きょうとせんとうごしょ:京都市上京区)の庭園、「龍潭寺」(りょうたんじ:静岡県浜松市)の庭園などが代表作。いずれも綺麗寂びの美意識が反映されています。
小堀遠州の庭園で特徴的なのは、人の手で加工された石を多用したことや、石や植木に色彩を多く取り入れたことです。小堀遠州が狙ったのは、「自然と人工」や「直線や曲線」の対比。そのため、あえて直線的な石橋や、ソテツなどの輸入常緑樹が用いられることもありました。千利休の侘びの精神はやや難解だったため、誰が見ても美しさが分かる調和の美や客観性の美を追求したのです。
無鄰菴
明治時代、近代日本庭園の先駆者として活躍した人物が、小川治兵衛です。小川治兵衛は1860年(万延元年)に山城国(現在の京都府南部)に生まれ、1877年(明治10年)に老舗「植木屋治兵衛」(うえきやじへえ)へ養子入り。その後7代目小川治兵衛を名乗り、洋風和風問わずに多くの造園を手がけました。
小川治兵衛が特に傑出していたのは、植栽の扱いです。伝統的な植木のみならず、それまで使用されなかった雑木や雑草も積極的に取り入れ、独自の景観を創出。芝生を初めて日本庭園に用いたのも小川治兵衛です。代表作は、「山県有朋」(やまがたありとも)の依頼によって手がけた「無鄰菴」(むりんあん:京都市左京区)など。「植治」(うえじ)と称された高い植栽技術や、和洋折衷の空間設計などが見られます。
昭和時代に後期式枯山水を復興した作庭家として名高い重森三玲は、1896年(明治29年)に岡山県で生まれました。「日本美術学校」で日本画を学び、生け花や茶道にも精通。のちに日本庭園の研究で名を馳せ、「日本庭園史図鑑 全二十六巻」を出版して庭園史家としての足跡を残しました。
庭園史研究の傍ら、豊富な知識と独創的な意匠を組み合わせて、数々の枯山水を造園。特に有名なのは「東福寺」(とうふくじ:京都市東山区)の方丈庭園です。石材と苔で市松模様を描くなど、モダンな作風を取り入れているのが特徴。古いものの中に新しさを見出すことを旨とし、その美意識は「永遠のモダン」と称されました。特に「石組」(いしぐみ)によって、枯山水の新しい可能性を見出した人物です。
等々力渓谷
飯田十基は、樹木の配置によって独自の美意識を表現した、大正時代・昭和時代の作庭家兼造園家です。1890年(明治23年)に千葉県で生まれ、早くから造園や作庭に従事。1918年(大正7年)に独立して飯田造園事務所を設立すると、「自然風」と称される技法で次々とユニークな庭園を造り上げました。
飯田十基は、樹木を密集させながらも高木や低木を組み合わせて立体感のある景観を創出。その手法は「雑木の庭」(ぞうきのにわ)と称され、庭園業界に新風を巻き起こしました。里山に自生するように木々や草花を植えることで、限りなく自然に近い景観を造り出したのです。代表作は、等々力渓谷(とどろきけいこく:東京都世田谷区)の日本庭園や、造園家「深谷光軌」(ふかやこうき)との合作「渡邉邸庭園」(わたなべていていえん:新潟県岩船郡関川村)など。1964年(昭和39年)の東京オリンピック以降、庭園に雑木を用いるケースが増えたことで、飯田十基の「雑木の庭」は、広く定着するようになりました。