第7章 幕藩体制の展開

高校元禄文化
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安定期に入り、経済が発展したことで豊かな文化も生まれるようになります。特権階級だけのものではなく、庶民の間でも花開いた文化が「元禄文化」でした。町人文学では作家「井原西鶴」、俳人「松尾芭蕉」、浄瑠璃作家「近松門左衛門」が登場。また、儒学が武士層の間で流行し、影響を受けた諸学問が独自に発達。さらに洗練された「琳派」による絵画作品や、「菱川師宣」による「浮世絵」が大流行します。大名庭園が作られ始めたのもこの時期からなのです。

元禄文化

戦乱が収まり、江戸幕府の政権が安定して経済が大きく発展すると、多彩な文化が生まれはじめました。それまで芸術文化は公家・僧侶、武士といった特権階級や一部の有力町人により親しまれてきましたが、太平の世となるにつれて一般庶民にまで拡大。この芸術文化が花開いた江戸時代前期・元禄年間(1688~1704年)前後の文化を、「元禄文化」と呼びます。

日本文化の成熟

元禄文化の特徴は、日本文化の成熟です。鎖国(さこく:海外との交流・貿易を禁じた政策)が確立し、海外からの影響が少なくなったことで、日本独自の文化が発展していきました。また、元禄文化が幅広く様々な層に支持されるようになった背景には、2つの理由が見られます。ひとつが、紙の生産や出版などの技術向上、もうひとつは全国への流通網が完成したことです。

元禄期の文学

元禄文化の文学は、「上方」(かみがた:京都・大阪などの京阪地方)の町人文学が中心です。また、朝廷と江戸幕府との協調関係から、和歌の指導を公家から武家が受けるようになり、武士層でも和歌が盛んになりました。

上方の町人文学

松尾芭蕉像_中尊寺

松尾芭蕉像 中尊寺

町人文学の中心人物は「井原西鶴」(いはらさいかく)、「松尾芭蕉」(まつおばしょう)、「近松門左衛門」(ちかまつもんざえもん)などです。

井原西鶴は大阪の町人で、「浮世草子」(うきよぞうし)と呼ばれる世相・風俗を描いた物語で注目を浴びた人物。「好色一代男」(こうしょくいちだいおとこ)、「武道伝来記」(ぶどうでんらいき)、「日本永代蔵」(にっぽんえいたいぐら)などが代表作とされています。

松尾芭蕉は、侘び・寂び(わび・さび:簡素なものの中に趣を感じる美意識)を重視した俳句を確立し、「奥の細道」(おくのほそ道)などの紀行文を執筆したことで有名です。また、近松門左衛門は「人形浄瑠璃」(にんぎょうじょうるり)や「歌舞伎」(かぶき)における多くの作品を描いた作者。浄瑠璃語りの「竹本義太夫」(たけもとぎだゆう)が演じたことで、庶民に親しまれました。さらに歌舞伎も発達し、江戸や上方に芝居小屋が置かれ、初代「市川團十郎」などが誕生。恋愛劇を得意とする「坂田藤十郎」(さかたとうじゅうろう)、女形(おやま)の「芳沢あやめ」(よしざわあやめ)などの名優も生まれました。

儒学の興隆

身分序列を重んじる儒学は、江戸幕府が庇護したことから、ますます重宝されるようになります。儒学における「忠孝、礼儀」を尊ぶ教えが、武士の思想となったのです。

朱子学と陽明学

山崎闇斎の碑_闇斎神社(兵庫県宍粟市)

山崎闇斎の碑 闇斎神社

大義名分論を基礎とする「朱子学」(しゅしがく)も江戸幕府によって庇護されました。代表的な朱子学者に「山崎闇斎」(やまざきあんさい)、「野中兼山」(のなかけんざん)らがいます。

なかでも、山崎闇斎が説いた「垂加神道」(すいかしんとう)は、神道を儒教流に解釈したもので、のちに幕末の尊王論(そんのうろん:天皇を尊ぶ思想)を生み出す源流となりました。

一方、「中江藤樹」(なかえとうじゅ)や「熊沢蕃山」(くまざわばんざん)などを輩出した「陽明学」(ようめいがく)は、革新性を持ちつつ現実社会を批判する思想により、江戸幕府からは警戒されていたのです。

古学派の経世論

また、「山鹿素行」(やまがそこう)や「伊藤仁斎」(いとうじんさい)らによって、「孔子」(こうし)及び「孟子」(もうし)の古典へ立ち返ろうとする「古学派」(こがくは)も誕生。その伊藤仁斎らの意思を受け継いだのが「荻生徂徠」(おぎゅうそらい)でした。

荻生徂徠は、社会問題に対する政治経済論を説いた「経世論」(けいせいろん)によって、側用人(そばようにん:江戸幕府将軍の命を幕臣へ伝える職)「柳沢吉保」(やなぎさわよしやす)や、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)によって重用され、江戸幕府における政治顧問を担ったのです。

儒学の影響を受けた諸学問の発達

合理的かつ、現実的な考え方をする儒教は、他の学問にも影響を与えています。独自の歴史観を展開する、「読史余論」(とくしよろん)を著した幕臣「新井白石」(あらいはくせき)も影響を受けたひとりです。

儒学は自然科学分野にも影響を与え、「本草学」(ほんぞうがく:薬草学)や医学などの実用的な学問が発達。儒学者・薬草学者「貝原益軒」(かいばらえきけん)が編纂した「大和本草」(やまとほんぞう:薬草事典)などが、広く利用されるようになりました。

また、数学者「関孝和」(せきたかかず)が、「和算」(わさん:日本独自の数学)を用いた代数などの計算法を研究。天文・暦学では、天文暦学者「渋川春海」(しぶかわはるみ)が、日本独自の暦「貞享暦」(じょうきょうれき)を作り出しました。

さらに、僧侶「契沖」(けいちゅう)による「万葉集」(まんようしゅう)の研究や、「北村季吟」(きたむらきぎん)の「源氏物語」(げんじものがたり)や「枕草子」(まくらのそうし)などの古典文学の研究は、のちに「国学」(こくがく:日本古典研究の学問)へと発展していきます。

元禄美術

美術分野では、上方の有力町人を中心として、寛永期(かんえいき:1624~1643年)の文化を継承しながらも、より洗練された作品が生み出されました。

絵画・陶器・庭園美術

六義園(東京都文京区本駒込)

六義園(東京都文京区本駒込)

幕府や大名に抱えられた絵師集団「狩野派」(かのうは)に加えて、「住吉如慶」(すみよしじょけい)、「住吉具慶」(すみよしぐけい)父子が江戸幕府の御用絵師(ごようえし)となって活躍します。

なお、「大和絵」(やまとえ:日本独自の絵画)の「土佐光起」(とさみつおき)は、朝廷で重宝されました。また、京都では「尾形光琳」(おがたこうりん)が「琳派」(りんぱ)を起こし、江戸では「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)による、世相を描いた「浮世絵」(うきよえ)が庶民の間で大変な人気となります。

焼物では、「京焼」(きょうやき)の祖として知られる「野々村仁清」(ののむらにんせい)が「上絵付法」(うわえつけほう)を完成。さらに、「友禅染」(ゆうぜんぞめ)の由来となった京都の扇絵師「宮崎友禅」(みやざきゆうぜん)が、友禅のもととなった扇絵(おうぎえ:扇に描いた絵)や着物のひな型を描いて名を馳せました。

そして、江戸幕府将軍が大名の屋敷を訪れることが増えたため、諸大名は屋敷に趣向をこらし、庭園内を回遊して楽しむ「回遊式庭園」を次々と造園。元禄時代における代表作としては、儒教思想の影響が見られる水戸藩(現在の茨城県水戸市)の江戸上屋敷内に作られた「小石川後楽園」(こいしかわこうらくえん:東京都文京区)や、柳沢吉保の屋敷であった「六義園」(りくぎえん:東京都文京区)がよく知られています。

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