「夕霧」(ゆうぎり)は、「源氏物語」の主人公「光源氏」(ひかるげんじ)と最初の正妻「葵上」(あおいのうえ)との息子で、父は皇族の血を引く権力者、母方は左大臣の家系という正真正銘の御曹司です。しかし光源氏は息子に対しあえて、かなり下の位である「六位」(ろくい)を与えました。そこから夕霧は、最終的には左大臣の位まで昇りつめます。公には光源氏の唯一の息子で、顔立ちこそ父とそっくりですが、性格は大きく違い、夕霧は色恋沙汰も起きない実直な人物で「まめ人」(真面目な人)と語られるほど。ただ、生真面目ゆえの問題も起きてしまうのです。
夕霧
月耕「源氏五十四帖 卅九 夕霧」
夕霧の母・葵上が亡くなったのは、父・光源氏の女性関係のもつれにより、生霊となった愛人「六条御息所」(ろくじょうのみやすんどころ)の物の怪に取り憑かれたためでした。
京の三条で母方の祖母・「大宮」(おおみや)の手で育った夕霧は、同じように両親との縁が薄かった「雲居雁」(くもいのかり)とひとつ屋根の下で姉弟同然に育てられます。
雲居雁は、光源氏の親友であり競争相手でもある「頭中将」(とうのちゅうじょう)の娘。頭中将と夕霧の母・葵上は兄妹であり、夕霧と雲居雁は従姉(いとこ)関係です。雲居雁の母が頭中将と離婚したため、雲居雁にとっては父方の祖母にあたる大宮のもとで育てられていました。
夕霧が12歳で元服を迎えると、学問を重視する父・光源氏の意向により、家柄にふさわしくない低い官位である「六位」を賜り、大学で学ぶ道を与えられます。
これは、夕霧の遊び仲間達よりも目下の位。そのうえ、宮中の仕事着は位によって色が定められており、六位の緑色を着る夕霧は誰しもにひと目でその位を知られます。
本来、夕霧ほどの血筋なら、勉学に励まなくても官位は思いのままのはず。光源氏がこのような判断をした理由は、自分が過去に味わった苦い経験にありました。光源氏は、「桐壺帝」(きりつぼてい:光源氏の父であり天皇)が崩御したあと、周囲の人々が冷たくなり、朝廷で立場が危うくなるという目にあっています。家柄などに左右されず、将来自力で世の重鎮となれるような実力を獲得させるために、夕霧にはあえて厳しい道を進ませたのです。
頭中将から藤花の宴に招かれ、雲居の雁の結婚を許される夕霧
夕霧が物語のなかで終始、「まめ人」と語られるのは、自らの努力で出世を勝ち取った優秀な官吏であり、雲居雁を想い続けて正妻とした女性関係の実直さのためでした。
幼少期、夕霧は姉弟同然に育てられた雲居雁と、ほのかな初恋を芽生えさせます。しかし夕霧が六位となった頃、雲居雁の父・頭中将は夕霧と雲居雁の仲を知ると激怒し、結婚は決して許さないと宣言するのです。
夕霧は失恋に落ち込みつつも発奮し、ひたすら仕事と勉学に打ち込んで、1年で六位を脱出。天皇の側仕えである「侍従」(じじゅう)職に就き、その翌年には側仕えでも高位の「近衛中将」(このえちゅうじょう)になります。
さらに16歳でひとつ上の位の「参議」(さんぎ)と兼職しますが、この立場は今で言う内閣閣僚で、もう誰も光源氏の七光りとは言えない地位。夕霧のもとには高貴な家柄の女性達から縁談が次々舞い込みますが、夕霧は雲居雁を想い続け、18歳のときに頭中将を納得させて恋を叶えるのです。
夕霧の真面目さと人物像を垣間見ることができる場面があります。夕霧は、雲居雁との恋を成就させたあと、こんな歌を詠むのです。
「浅緑若葉の菊を露にても 濃き紫の色とかけきや」
(菊が浅緑の若葉の頃は、濃い紫の花を咲かせるなんて誰も思わない。浅緑の六位の衣を着ていた若年の私が、濃い紫の衣を着るようになろうとは、お前は夢にも思わなかっただろうね)
これは、かつて夕霧がまだ六位だった時代に官位の低さを侮辱した雲居雁の乳母に対して詠んだもの。夕霧は乳母から受けた当時の屈辱を忘れず、それを努力のひとつの糧にしたのです。
順調に出世し、雲居雁との幸せな結婚生活を送る夕霧。雲居雁との間に7人、雲居雁に会えないときに側室に迎えていた「藤典侍」(とうのないしのすけ:光源氏の部下の娘)との間に5人の子どもがいました。このとき、夕霧にとって女性は雲居雁と藤典侍だけ。夕霧の身分から考えると、何人もの妻と恋人をもつのが一般的ですが、非常に女性に真面目なことが分かります。
しかし、29歳の頃、親友・「柏木」(かしわぎ:頭中将の息子)の死を機に、夕霧は新たな恋に走ってしまうのです。生前の柏木から、自分の亡きあとに妻「落葉宮」(おちばのみや:朱雀院[すざくいん]の第2皇女)の世話を頼むと託されたことがきっかけでした。
夕霧は、亡き親友の遺言に応えて落葉宮の世話を行うようになります。当時、長年連れ添った本妻・雲居雁の所帯じみた様子に少々うんざりしていた夕霧は、落葉宮に何かと気を配っているうちに、天皇の娘として育った落葉宮のたおやかさ、奥ゆかしさに強く惹かれることに。夕霧は、落葉宮のもとに足しげく通い、様々なことを口実に口説きます。落葉宮は拒み続けたものの、結局は気まずい雰囲気のなかで結婚へと行きつくのです。
一方、雲居雁は夫・夕霧の浮気に腹を立て、子ども達を連れて実家に帰ってしまいます。雲居雁と別れる気などはまったくない夕霧は、慌てて実家に迎えに行きますが、雲居雁は出てきません。最終的に夕霧は、ひと月の半分は雲居の雁のもと、もう半分は落葉宮のところへ訪れるという生活を選ぶのです。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 月耕「源氏五十四帖 卅九 夕霧」