刀工の名は、「加藤八郎」。最初の称号は「長運斎」で、安政元年にこの称号を息子「是俊」(これとし)に譲り、晩年は「長寿斎」と号しました。
出羽国米沢藩(よねざわはん:現在の山形県)・上杉家の藩工になり、1818~1829年(文政元年~12年)頃江戸に出て上杉家の中屋敷で鍛刀。
作風は、身幅の広く、重ねの厚い剛刀(ごうとう)に、匂本位の小丁子乱れを焼き、地肌は、杢目肌、棒樋に添樋のある物が非常に多く、これは剛刀のため、持ったときの重さを軽くする役割と考えられています。
かたな めい こうふにおいてちょうじゅさいつなとし あんせいにさいにがつきちじつ