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室町時代
おだのぶなが しゅいんじょう(いけだかつさぶろう ほかろくめいあて しょうそく) 織田信長 朱印状(池田勝三郎 他六名宛 消息) /ホームメイト

永禄11年(1568年)9月に上洛、10月に畿内(京都近辺の山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国を指す呼称)を平定した織田信長は、翌年の1月4日に京都から美濃国へ帰還します。
ところがその隙を突き、織田信長によって京都を追われた武将、斎藤龍興(さいとうたつおき)と「三好三人衆」の三好長逸(みよしながやす)、三好宗渭(みよしそうい)、岩成友通(いわなりともみち)らが、足利義昭の仮の将軍御所である六条本圀寺を攻撃。これにより畿内を平定できていないと感じた織田信長は再度京都へ戻り、足利義昭のための大規模な御所を二条に建造します。
この「織田信長 朱印状」は、御所の完成を見届けた織田信長が岐阜への帰還前日である永禄12年(1569年)4月20日の日付で7名の武将、池田勝三郎(いけだかつさぶろう)、津田九郎左衛門(つだくろうざえもん)、菅谷右衛門(すがやうえもん)、平手甚左衛門(ひらてじんざえもん)、長谷川与次(はせがわ よじ)、山田三左衛門(やまださんざえもん)、丹羽源二郎(にわげんじろう)に宛てた物です。
書面には、「畿内については一刻も早く確実に平定するよう指示したため、美濃に帰還する予定であること。自分が美濃に帰るまで少しも油断しないように皆に伝えるように。」といったことが書かれています。この書面から上洛後も不穏な動きが残る状況への織田信長の苦悩が見られます。
また、永禄10年(1567年)に初めて使用された織田信長のサインとも言える「天下布武の印」が押印されていることも、この書状の価値を高めています。
