著名な歌人100人の歌を1首ずつ収録した「小倉百人一首」(おぐらひゃくにんいっしゅ)にて、「蝉丸」(せみまる)の名を知った方も多いのではないでしょうか。この百人一首では、ただひとりかぶり物をした姿で描かれ、一見僧侶のように見えますが、不明。なぜなら蝉丸の出生に関する史料が残っておらず、小倉百人一首の読み札にも、僧侶を表す「僧正」(そうじょう)・「法師」(ほうし)という呼称が付けられていないからです。記録によれば、盲目の琵琶の名手で音曲の守護神とまで噂されましたが、一方で天皇の皇子として生まれたという説や、実在の人物ではないとの説が出るほど謎に包まれた人物でした。
蝉丸(小刀百人一首)
平安時代前期の歌人・蝉丸の生没年は不詳で、両親の名も不明。
そのため、58代「光孝天皇」(こうこうてんのう)の皇子説、60代「醍醐天皇」(だいごてんのう)の第4皇子説、54代「仁明天皇」(にんみょうてんのう)の第4皇子「人康親王」(さねやすしんのう)という説など、諸説が飛び交う謎めいた人物です。
蝉丸に関する史料はほとんど存在しませんが、平安時代末期に成立した説話集「今昔物語集」(こんじゃくものがたりしゅう)に、59代「宇多天皇」(うだてんのう)の第8皇子「敦実親王」(あつみしんのう)の雑色(ぞうしき:雑役を務める従者)を勤めたという記述が見られます。
敦実親王は優れた音楽家で、敦実親王が奏でる琵琶を聴くうちに、長年仕えた蝉丸自身も並ぶ者がいないほどの琵琶の名人になったとされます。
同じく今昔物語集によると、蝉丸はのちに盲目となり、逢坂山(おうさかやま:滋賀県と京都府の県境にある山)の関(関所)近くの貧しい家で暮らしていたとあります。
この蝉丸の琵琶をぜひ聴きたいと熱心に望んだのが、醍醐天皇の孫で管弦の名手であった「源博雅」(みなもとのひろまさ)。
琵琶には「流泉」(りゅうせん)・「啄木」(たくぼく)といった名曲がありますが、当時これらの曲を完璧に演奏できるたのは蝉丸しかいませんでした。
源博雅が琵琶の演奏を聞きたい一心で、蝉丸へ「逢坂山での住まいを離れて京の都へ来てはどうか」と伝えると、蝉丸は和歌で返事をしました。
「世の中はとてもかくても過ごしてむ 宮もわら屋も果てしなければ」
(この世はどこに住んでも同じです。宮殿もわらぶき小屋も永久に住める訳ではないのですから。)
源博雅はあきらめ切れず、逢坂山へ通い続けること3年目の8月15日の夜。「こんなしみじみとした夜に、音楽の心が分かる人と語り明かしたい」と呟いた蝉丸に、庵の外からこっそり様子をうかがっていた源博雅は、思わず蝉丸の前に姿を現してしまいます。
蝉丸は源博雅の熱意に心を打たれ、「流泉」と「啄木」を源博雅へ伝授したと伝えられます。
「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」
(東国に下る人も都へ帰る人も、別れては会い、知る人も知らない人も誰もが行き交う。これが噂に聞く逢坂の関なのだ。)
小倉百人一首のなかでもよく知られる歌のひとつで、蝉丸が逢坂の関で往来の人々を眺めて詠んだ歌とされます。逢坂の関は京都と東国をつなぐ交通の要衝で、東国へ行く人も都へ帰る人も必ずこの関所を越えました。
「行くも帰るも」・「知るも知らぬも」・「別れては逢う」(逢坂)と対になる表現を3つも盛り込んでいます。リズミカルな技巧を凝らしつつ、「出会った者同士は、いつか必ず別れる」という人生の無常観を表している名歌です。