安土桃山時代の重要用語

呂宋助左衛門 
/ホームメイト

安土桃山時代の日本は、東南アジアとの交流が盛んであり、多くの商人達が東南アジアに渡り貿易を行っていました。そのなかでも有名なのが、商人「呂宋助左衛門」(るそんすけざえもん)。本名は「納屋助左衛門」(なやすけざえもん)と言い、室町時代末期から安土桃山時代初期にかけて活躍しました。呂宋助左衛門は通称名であり、呂宋はフィリピン諸島にあるルソン島に由来します。呂宋助左衛門が東南アジアから輸入した壺は「豊臣秀吉」にも献上され、豊臣秀吉はその壺を大いに気に入りました。堺の伝説的な商人・呂宋助左衛門の生涯を振り返ります。

安土桃山時代の重要用語

呂宋助左衛門 
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安土桃山時代の日本は、東南アジアとの交流が盛んであり、多くの商人達が東南アジアに渡り貿易を行っていました。そのなかでも有名なのが、商人「呂宋助左衛門」(るそんすけざえもん)。本名は「納屋助左衛門」(なやすけざえもん)と言い、室町時代末期から安土桃山時代初期にかけて活躍しました。呂宋助左衛門は通称名であり、呂宋はフィリピン諸島にあるルソン島に由来します。呂宋助左衛門が東南アジアから輸入した壺は「豊臣秀吉」にも献上され、豊臣秀吉はその壺を大いに気に入りました。堺の伝説的な商人・呂宋助左衛門の生涯を振り返ります。

南蛮貿易で有徳人となった豪商

国際貿易都市・堺で誕生

豊臣秀吉が呂宋助左衛門に宛てて書いた朱印状

豊臣秀吉が呂宋助左衛門に
宛てて書いた朱印状

1540年(天文9年)ごろから、日本では南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)、中国人との間で「南蛮貿易」が行われるようになりました。

この当時、日本を治めていた「織田信長」、豊臣秀吉は南蛮貿易を推奨し、定期航路と商館などが整備されます。その貿易拠点として発展した都市のひとつが、和泉国(いずみのくに:現在の大阪府南西部)の堺(現在の大阪府堺市)でした。

呂宋助左衛門は、1565年(永禄8年)、堺の「納屋衆」(なやしゅう)と呼ばれる商家で生まれます。貿易において豊富な知識と経験を持っていた呂宋助左衛門は、当時の日本ではめずらしく、積極的な海外進出を図りました。

1593年(文禄2年)にはフィリピン諸島にあるルソン島(呂宋)へ渡り、その翌年の1594年(文禄3年)に日本へ帰国。その際、東南アジアから壺、傘、ロウソクなど多くの品々を持ち帰りました。そして、堺の代官(直轄領の領主)を介して、呂宋助左衛門は持ち帰った品々を豊臣秀吉に献上します。

天下人に献上された壺

豊臣秀吉は、呂宋助左衛門が献上した壺をとても気に入り、50個の壺を「大坂城」(現在の大阪城)西の丸の広間に並べたとされています。当時公家、武家の間で茶の湯が隆盛を極めた時代。異国から持ち込まれた壺は、茶器として高い価値を持ち、豊臣秀吉はそれらを諸大名に買い取らせました。

このことが評判となり、呂宋助左衛門は豊臣秀吉の庇護を受けながら、貿易商として日本屈指の豪商へと成長していきます。ルソン島から輸入した品々で財を成したことが、通称名・呂宋助左衛門の由来とされます。

呂宋助左衛門の没落

豊臣秀吉の怒りを買い、東南アジアに渡航

呂宋助左衛門

呂宋助左衛門

豊臣秀吉の支援を受けて、事業を拡大していった呂宋助左衛門ですが、その繁栄はあまり長くは続きませんでした。巨万の富を得た呂宋助左衛門は派手な生活を送り、度を超えた贅沢をするようになります。

1598年(慶長3年)に、そのような奢侈(しゃし:身分不相応な贅沢をすること)な生活が遂に豊臣秀吉の怒りを買ってしまい、呂宋助左衛門の一家は没落。しかし、邸宅没収の処分を受けることを事前に察知した呂宋助左衛門は、事前に所有していた居宅と財産を菩提寺である「大安寺」(だいあんじ:大阪府堺市)へ寄進。呂宋助左衛門自身は、ルソン島の日本人街へと逃げるように移り住みます。

そして、1607年(慶長12年)にはカンボジアに渡航。カンボジアでは、国王からの信任を得て、日本からの貿易商の管理を任されるようになりました。カンボジアの国書には、1607年(慶長12年)に、カンボジア国王の信任を得た証として、「日本船主助左衛門」の名が記されています。以降は、再び現地にて豪商へと成り上がり、呂宋助左衛門はカンボジアで生涯を終えました。

今日でも続く、堺と東南アジアとのつながり

南海本線「堺駅」

南海本線「堺駅」

呂宋助左衛門の活躍は、当時の日本にとって貿易、及び外交における重要な役割を果たしました。豊臣秀吉も当初は呂宋助左衛門を高く評価。それを物語るように南海電気鉄道の南海本線「堺駅」の観光案内所には、「ルソンの壺」のレプリカが展示されています。

また、堺港には呂宋助左衛門の銅像も建っており、フィリピンの首都・マニラ市にも銅像が立地。今日においても、堺市は東南アジア諸国とのつながりが強く、市役所には「アセアン交流推進室」という部署が設置されているのも特徴です。

呂宋助左衛門が築いた日本と東南アジアとのつながりは、現代においても重要な役割を果たしているのです。

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