鎌倉時代の重要用語

二月騒動 
/ホームメイト

1221年(承久3年)に起きた「承久の乱」(じょうきゅうのらん)で、鎌倉幕府は東国の御家人達を結集して朝廷軍を討ち滅ぼしました。しかし、1274年(文永11年)に元(げん:13~14世紀のモンゴル帝国)が日本へ侵攻する「文永の役」(ぶんえいのえき)以前、九州における防衛の軍勢は、鎌倉幕府が派遣した「西国警護番」(さいごくけいごばん)のみ。承久の乱に比べると明らかに数が少なく、世界最強と謳われた元軍に対して貧弱でした。なぜ、鎌倉幕府は九州に大軍を送らなかったのでしょう。実はその背景に、当時の鎌倉幕府が直面していた重要な問題がありました。その問題が顕在化して起きた「二月騒動」(にがつそうどう)について解説します。

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1221年(承久3年)に起きた「承久の乱」(じょうきゅうのらん)で、鎌倉幕府は東国の御家人達を結集して朝廷軍を討ち滅ぼしました。しかし、1274年(文永11年)に元(げん:13~14世紀のモンゴル帝国)が日本へ侵攻する「文永の役」(ぶんえいのえき)以前、九州における防衛の軍勢は、鎌倉幕府が派遣した「西国警護番」(さいごくけいごばん)のみ。承久の乱に比べると明らかに数が少なく、世界最強と謳われた元軍に対して貧弱でした。なぜ、鎌倉幕府は九州に大軍を送らなかったのでしょう。実はその背景に、当時の鎌倉幕府が直面していた重要な問題がありました。その問題が顕在化して起きた「二月騒動」(にがつそうどう)について解説します。

西国に大軍を派遣できない理由

鎌倉幕府の権力争いに勝利した北条氏

鎌倉幕府で最も権威があるのは「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん)。しかし鎌倉時代中期以降、実際に実権を握っていたのは「執権」(しっけん:鎌倉将軍を補佐する役職)でした。

この執権を世襲した北条氏は、かつてともに鎌倉幕府の樹立に尽くした有力「御家人」(ごけにん:鎌倉将軍と主従関係を結んだ武士)達を次々と倒して、権力を拡大。ところが、北条氏一強の状態になると、今度は北条氏内部で執権をめぐる争いが起こり始めます。

そこで5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)の時代に、北条一族の中でも自らの家系の「宗家」(そうけ:嫡流の家系)からしか、執権を選んではいけないという暗黙のルールを作ってしまいます。この家系は「得宗」(とくそう)と呼ばれ、北条氏のなかでも最も家格が高い家柄となったのです。

御家人を巻き込んだ得宗家の内紛

ところが北条時頼の次の代になると、得宗内で対立が発生。この対立は、周囲の御家人達を巻き込んでさらに拡大していきました。元が日本へ従属を求める国書を何度も送り付けてきたのは、この対立が最も激しかった頃。

つまり、東国は極めて緊張状態にあり、そんな中で九州へ大軍を送り込んだりしたら、得宗と言えども誰に攻め込まれるか分からなかったのです。それが、大軍を九州に派遣できなかった大きな理由でした。

鎌倉と京都で起きた内紛

異母兄による執権暗殺計画

北条時宗

北条時宗

当時の7代執権「北条政村」(ほうじょうまさむら:得宗の出身ではない)は、混乱状態では日本を守ることはできないと考えました。

そして1268年(文永5年)、御家人の力を結集するために、執権の座を8代「北条時宗」(ほうじょうときむね:北条時頼の子、つまり得宗の一族)へ譲ります。ところが、これを喜ばない人物がいたのです。

北条時宗には「北条時輔」(ほうじょうときすけ)という異母兄(いぼけい:母親の違う兄)がおり、母の身分が低かったために執権になれなかった北条時輔は、京都の治安を守る「六波羅探題南方」(ろくはらたんだいみなみがた)長官という位に甘んじていたのです。

しかも六波羅探題は北方と南方に分かれており、南方は地位が低い方。これを恨んだ北条時輔は、密かに北条時宗の殺害を企てます。

六波羅探題の争乱

しかし北条時宗はこの計画を察知し、1272年(文永9年)2月11日に北条時輔と通じていた「北条教時」(ほうじょうのりとき:名越教時[なごえのりとき]とも)、「北条時章」(ほうじょうときあきら:名越時章[なごえときあきら]とも)の兄弟を鎌倉で殺害。

この知らせは、すぐに六波羅探題北方の長官「北条義宗」(ほうじょうよしむね)に伝わり、北条義宗は六波羅探題南方を襲撃します。

このとき、京都中の武士が周辺に集まり、得宗側と反得宗側に分かれて大きな戦乱となりました。やがて屋敷に火をかけられ、北条時輔は討ち死に。この戦いは2月に起きたことから、二月騒動と呼ばれました。

孤立していく執権

こうして、得宗に批判的な勢力は一掃され、鎌倉幕府の要職は得宗の北条時宗に近い人々が独占。同時に、北条時宗が非情な指導者であるという印象が御家人達の間に浸透し、元寇に立ち向かう武士団をまとめる効果があったと考えられます。

しかし、鎌倉で討たれた北条時章は、冤罪であったことがのちに判明。無実の人物を殺してしまったことで、北条時宗に対して猜疑心(さいぎしん)を持つ者が現れたことも確かでした。そして北条時宗を支えた北条政村の死後、北条時宗は次第に孤立。

そのあと、北条時宗に率いられた鎌倉幕府軍は、1281年(弘安4年)の2度目の元寇「弘安の役」(こうあんのえき)でも元軍を撃破。ところが3度目の元寇に対する準備などのストレスがたまったのか、3年後、32歳という若さで北条時宗は死去しました。

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