「伊東祐亨」(いとうすけゆき)は「日本海軍の父」と呼ばれた明治時代の軍人です。幼き頃より文武に優れ、航海術・西洋砲術に長けていました。明治維新後、発足間もない海軍で数々の戦艦の艦長を歴任。初代連合艦隊司令長官として「日清戦争」(にっしんせんそう)を勝利に導きます。その後、伊東祐亨は海軍で順調に出世し、「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう)などの後進も育てました。巡洋艦(じゅんようかん:速力に優れた軍艦)に乗って交戦した、唯一の連合艦隊司令長官でもあり、幼いころに培った「武士道精神」を持ち、敵に対しても礼節を重んじる生粋の武将とも言える人物でした。
伊東祐亨
1843年(天保14年)、薩摩藩士「伊東祐典」(いとうすけのり)の四男として誕生。幼少期より父親に誇り高き武士道精神を叩き込まれ、江戸幕府のエリート養成機関である「開成所」(かいせいじょ)で、語学・西欧の科学技術を学びました。
その後、日本における西洋砲術の第1人者「江川太郎左衛門」の私塾へ留学。さらに「神戸海軍操練所」(こうべかいぐんそうれんじょ)で「坂本龍馬」らとともに航海術を習得します。
その坂本龍馬が、京都で暗殺された翌年の1868 年(慶応4年)、伊東祐亨が江戸の薩摩藩邸に滞在中、江戸幕府軍の襲撃を受ける事件が発生(江戸薩摩藩邸焼き討ち事件)。伊東祐亨は仲間とともに品川に停泊していた薩摩藩の船に逃れ、追撃する江戸幕府艦に対して砲手として反撃して活躍しました。
明治維新後、海軍に入隊した伊東祐亨は、すぐさま頭角を現します。1871年(明治4年)に海軍大尉、1882年(明治15年)海軍大佐、1892年(明治25年)には海軍中将と順調に昇格していきました。その間、主だった戦艦の艦長を歴任した伊東祐亨は、1894年(明治27年)、新たに編成された連合艦隊の初代司令長官に就任。
朝鮮半島の支配をめぐって日本と清(17~20世紀初頭の中国王朝)との間で起きた日清戦争では、自ら戦地に赴いて陣頭指揮を執り、清の最強艦隊と言われた「北洋艦隊」(ほくようかんたい)から全面降伏を勝ち取っています。この勝利は日清戦争の行方を決し、日本側不利という事前の予測を覆す結果に。
こうして実戦面での評価を揺るぎないものとした伊東祐亨は、1904年(明治37年)に始まったロシア帝国との「日露戦争」(にちろせんそう)においても、海軍の要職として後任の連合艦隊司令長官・東郷平八郎らを指導。黎明期の海軍を牽引したことから。「日本海軍の父」と言われました。
日清戦争の真っただ中、伊東祐亨率いる連合艦隊が「威海衛海戦」(いかいえいかいせん)で清の北洋艦隊から全面降伏を勝ち取ったときのこと。実は、北洋艦隊を指揮していた「丁汝昌」(てい・じょしょう)提督と伊東祐亨とは旧知の仲で、日清戦争以前は双方の本拠地を訪問しあい、何度も食事を共にしたほどでした。
丁汝昌に対し一目置いていた伊東祐亨は、威海衛海戦で北洋艦隊の敗戦が濃厚になると「あなたは清の近代化のために欠かせない人物であるから、一時日本に身を寄せて好機が来るのを待ってはどうか」と進言します。
しかし丁汝昌は軍人として祖国に殉じる道を選び、全面降伏後に服毒自殺。これを聞いた伊東祐亨は、その死を悼み、戦利品として没収していた艦船リストから、商船「康済号」(こうさいごう)を独断で外します。そして半旗を掲げた連合艦隊を整列すると、康済号に丁汝昌及び清兵士の棺、生き残った北洋艦隊の兵士を乗船させて清へ送り返しました。
この逸話は、敵将に対しても敬意を払う武士道精神を表すものとして世界から高く評価され、今日まで語り継がれています。最後に、伊東祐亨の詠んだ歌をご紹介します。
「諸共にたてし勲をおのれのみ 世に誉れある名こそつらけれ」
(意味:自分だけでなく、部下とともに勝ち取った成果を、自分ひとりの栄誉として扱われるのはかえって辛い)
日清・日露戦争で武勲(ぶくん:戦場での手柄)を立てた伊東祐亨は、海軍における最高位である「元帥海軍大将」(げんすいかいぐんたいしょう)にまで上り詰めました。
しかし、こうした栄誉にあずかることをよしとせず、むしろ居心地の悪さを感じていたことがこの歌から読み取れます。伊東祐亨は1914年(大正3年)に亡くなりますが、最後まで戦死した部下達を忘れることはなく、武士道精神とともに生きたのです。