「石上麻呂」(いそのかみのまろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した貴族・政治家。古代から有力豪族であった「物部氏」(もののべし)の一族で、歴代の天皇からも大いに信頼されました。皇族以外では初めて「大納言」(だいなごん)にまで昇進し、最後は「左大臣」(さだいじん)として一生を終えます。そんな石上麻呂ですが、政治家として目立った事跡を残している訳ではありません。実は、石上麻呂を有名にしたのは、没後100年ほどあとに書かれた「竹取物語」(たけとりものがたり)。この物語に、石上麻呂が実名のままで登場しているのです。
石上麻呂
石上麻呂は640年(舒明天皇12年)に誕生。飛鳥時代に、仏教布教の件で「蘇我氏」(そがし)と争った物部氏の末裔に当たります。
38代「天智天皇」(てんじてんのう)の時代に朝廷に出仕し、672年(天武天皇元年)の「壬申の乱」(じんしんのらん)では、乱に敗れた「大友皇子」(おおとものみこ/39代・弘文天皇[こうぶんてんのう])側に付き、最後まで大友皇子を守り続けました。
普通ならば、この戦いで殺されても不思議ではありません。ところが石上麻呂はここで命拾いし、しかも忠誠心を評価されて朝廷へ召されました。そのあと、40代「天武天皇」(てんむてんのう)の時代に「新羅」(しらぎ:当時の朝鮮半島島南部にあった国)へ派遣され、41代「持統天皇」(じとうてんのう)の時代には「筑紫」(ちくし:現在の福岡県)に派遣されるなど、官吏として活躍。
42代「文武天皇」(もんむてんのう)の時代になると、石上麻呂は朝廷の重職を歴任。704年(慶雲元年)には右大臣、707年(慶雲4年)には「左大臣」(さだいじん)に昇進します。このとき一緒に右大臣に昇進した「藤原不比等」(ふじわらのふひと)とともに、その後の朝廷を支えました。
奈良時代末期に編纂された歌集「万葉集」(まんようしゅう)には、43代「元明天皇」(げんめいてんのう)が詠んだ「ますらをの鞆の音すなりもののふの大臣盾立つらしも」(武人達の勇ましい武具の音が聞こえます。大臣が盾を立てているのです。)という歌が収められています。
これは元明天皇が、自身の即位を祝う儀式の様子を表したものですが、この「大臣」とは石上麻呂のことだと言われます。
このように、38代・天智天皇から44代「元正天皇」(げんしょうてんのう)まで7代の天皇に仕えた石上麻呂でしたが、717年(養老元年)に78歳で薨去(こうきょ:貴人が亡くなること)。元正天皇をはじめ、国中の誰もがその死を悲しみました。
しかし、約100年後、平安時代初期に成立した「竹取物語」にて、石上麻呂は華麗な復活を遂げます。物語では、かぐや姫があまりに美しいために多くの人が求婚しますが、かぐや姫は拒否。求婚者は徐々に減り、最後に5人の貴族が残るのですが、そのなかの「中納言石上麻呂」は、名前の通り石上麻呂のことだと言われます。
かぐや姫は「私が言う物を持ってきた人と結婚します」と宣言しますが、そのお題はかつて誰も見たことがない珍品ばかり。他の4名がすべて入手に失敗し、いよいよ石上麻呂の番になります。石上麻呂に対するお題は、「燕が産んだ子安貝」。あちこち探しまわった石上麻呂は、最後に屋敷の屋根に上って燕の巣へ手を突っ込み、ついに子安貝を入手します。
しかし、転落して腰を打撲。しかも、子安貝だと思っていたのはよく見ると燕の糞。ショックのあまり石上麻呂は体を壊し、しばらくして亡くなってしまいます。ここから、期待はずれのことを「かいなし」(貝なし/甲斐なし)と言うようになったと伝えられます。
竹取物語に登場する5人の貴族のうち、石上麻呂を含む3名は、実在の人物と名前が同じ。残り2名は実在しませんが、実はモデルがおり、そのひとりは藤原不比等だと言われます。平安時代初期と言えば、すでに藤原不比等の子孫が朝廷で絶大な権力を持っていた時代。
そんな権力者の先祖や、朝廷の功労者を物語に登場させ、しかも物語のなかとはいえ、かなりひどい目に遭わせているのです。作者はなぜそんな話を書いたのでしょう。
竹取物語の作者は不明ですが、歴史家のなかには、作者は物語を通して権力者の悪事を摘発しようとしたと主張する人も。真実は確かめようがありませんが、そう考えながら読むと、私達がよく知っている竹取物語の印象も違って見えてくるから不思議です。