「芸者」(げいしゃ)とは、優美な姿と巧みな伎芸(ぎげい:三味線音楽と踊りのこと)で、宴会において人を楽しませる女性のことです。江戸時代に誕生し、時代とともに変化しつつも、現代まで継承された日本の伝統的な職業でもあります。日本国内のみならず外国でもよく知られた日本文化のひとつです。
芸者
芸者とは、宴席で客人を楽しませる専門職のことです。座敷で歌や踊りなどの伝統芸能を披露する他、会話、雰囲気づくりで場を盛り上げます。もともと芸者は「芸に秀でた者」という意味で、かつては遊芸に限らず、武術に優れた者も芸者と呼ばれていました。
芸者には、踊りを担当する「立方」(たちかた)、歌や三味線・囃子物を担当する「地方」(じかた)、座興や会話で場を活気付ける「幇間」(ほうかん)という3つの役割があります。また、芸者の世界全体を「花柳界」(かりゅうかい)と呼び、芸者が活動する地域は「花街」(かがい/はなまち)と呼ばれるのです。
現在でも、東京の赤坂、浅草、神楽坂、新橋などをはじめ、全国各地に花街が存在。関東では芸者を「芸者」や「芸妓」(げいぎ)と呼ぶ他、修行中の芸者は「半玉」(はんぎょく)と呼ばれます。一方、京都では修行中の芸者を「舞妓」(まいこ)と呼ぶのです。多くの場合、20代前半までの修業期間を経たあと、一人前の芸妓としての道を歩み始めます。舞妓や半玉はひとつの職業というよりも、芸者の前段階の存在を指す言葉なのです。
芸者の原型は、江戸時代の元禄年間(1688~1704年)に「太鼓女郎」(たいこじょろう)や「踊り子」と呼ばれた女性達とされています。太鼓女郎は、江戸時代前期の上方(京都・大坂)の遊郭で、楽器を演奏して宴席を取り持った遊女のこと。踊り子は、遊郭ではなく市中で生活しながら、料理屋や宴席で踊りを見せていた女性のことで、売春を行うこともあったとされ、明和年間(1764~1772年)頃には「町芸者」と呼ばれるようになりました。
宝暦年間(1751~1764年)には、売春を行わず、芸能のみを提供する女性達が登場し、「女芸者」として区別するようになったのです。
当初、芸者という呼称は女性ではなく、男性の芸能者を指す言葉でした。特に江戸時代の上方においては、元々芸者という呼称は女性ではなく、太鼓持ち(たいこもち)や幇間と呼ばれる座を賑わす男性芸人のこと。女性の芸能者は芸妓という別の呼称で区別されていたのです。明治時代になると、芸者という言葉が男性を意味することはほとんどなくなり、女性の芸能者を指す言葉として使われることが一般的になりました。
江戸時代中期から幕末にかけて、芸者という職業は発展し、種類も増えました。特に、遊郭の芸者と町芸者という2種類の芸者が生まれ、江戸の吉原遊郭では、売春はせず芸を披露する専門職としての「吉原芸者」が登場します。
また、江戸の深川には「辰巳芸者」(たつみげいしゃ)と呼ばれる町芸者が誕生。黒縮緬(くろちりめん)の着物に幅広の帯を後ろに垂らし、素足の爪に紅をさしている姿から「羽織芸者」とも呼ばれました。
伊藤博文
明治時代になると、明治新政府は1872年(明治5年)に「芸娼妓解放令」を敷き、遊女や芸者の人身売買と年季奉公(借金返済のために働くこと)を禁じ、借金を帳消しにしました。
これで遊女や芸者が解放されたかに見えましたが、その後、娼妓規則・芸妓規則等が改正された結果、届け出を受理されれば希望者は誰でも芸者になれるようになったのです。このようにして芸者の数が増え、東京の柳橋・新橋などの花街が大いに賑わいました。
明治時代には、政官財界の待合・芸者の利用が盛んになり、芸者は社交界の花形となります。財界人のなかには、「伊藤博文」や「山縣有朋」(やまがたありとも)など、芸者を妻に迎えた人物も少なくありません。
「第2次世界大戦」以後、芸者は1947年(昭和22年)以降、公安委員会の監督下に置かれ、前借金による身売りが禁止されるとともに、芸者屋に住み込む必要がなくなり通勤の芸者も現れました。また、児童福祉法の制定により、子どもの頃から芸者の修行を積むことが難しくなり、昭和40年代(1965~1974年)には娯楽と接客業の多様化によって遊郭や遊女屋が衰退。芸者の数は減り続けることとなりました。
吉原遊郭は、江戸幕府が正式に運営を許可した遊郭で、江戸時代を通じて日本最大の公許遊郭でした。1617年(元和3年)に現在の日本橋人形町付近に開設され、1657年(明暦3年)の「明暦の大火」後は現在の浅草へ移転。それ以降、日本橋人形町を「元吉原」、新たに創設されたものを「新吉原」または単に吉原と呼ぶようになります。
遊女
吉原内では、やってきた客はまず引手茶屋に上がり、そこから茶屋を通じて遊女を指名し、遊女屋(見世)で実際に遊ぶのが通例でした。
茶屋の店員は、客の好みや予算に合わせて遊女や芸者を紹介し、宴席の段取りを整えます。この時、遊女が客のもとへ来るまでの場つなぎとして呼ばれていたのが芸者でした。芸者は芸を売る専門職として、遊女とは明確に区別されていたのです。
吉原遊郭では多くの芸者が活躍します。特に、江戸時代後期から明治時代にかけて、吉原の芸者は芸の専門家として高い評価を受けていました。
初期の吉原芸者は特定の遊女屋で生活していましたが、時代が進むにつれて複数の店に出向いて仕事をするようになり、やがて遊女屋とは別の場所に住まいを構える「仲之町芸者」(なかのちょうげいしゃ:別名・見番芸者[けんばんげいしゃ])という新たな芸者も誕生。「芸は売っても体は売らない」という心意気をもって、吉原で芸能を武器に暮らしていたのが吉原芸者なのです。
現代でも、京都の5大花街(かがい)である「上七軒」(かみしちけん:京都市上京区)、「祇園甲部」(ぎおんこうぶ:京都市東山区)、「祇園東」(ぎおんひがし:京都市東山区)、「先斗町」(ぽんとちょう:京都市中京区)、「宮川町」(みやがわちょう:京都市東山区)をはじめ、東京、金沢、新潟など全国の花街で芸者は活動を続けています。近年は後継者不足が深刻化しているため、各地で振興会や会社組織が設立され、後継者育成が進められているのです。
例えば、新潟県新潟市では古町芸妓(ふるまちげいぎ)の減少に際して1987年(昭和62年)に「柳都振興株式会社」が設立され、山形県酒田市では1990年(平成2年)に「港都振興」が誕生。兵庫県神戸市の有馬温泉でも、伝統を守りながら若い芸者の育成に取り組んでいます。
現代の芸者は、従来の宴会仕事だけでなく、外国人向けの観光活動や伝統文化体験なども提供。日本の伝統文化を継承する芸者の活動は、形を変えながら現代においても、なお続いています。