「県犬養三千代」(あがたのいぬかいのみちよ)は、奈良時代前期の女官。出生などはすべて謎に包まれています。朝廷に仕えてから一度は結婚しますが、しばらくして離婚。藤原氏繁栄の基礎を築いた「藤原不比等」(ふじわらのふひと)に嫁ぎ、「安宿媛」(あすかべひめ)を授かります。これがのちに第45代「聖武天皇」(しょうむてんのう)に嫁いだ「藤原光明子」(ふじわらのこうみょうし)です。自分の娘を天皇に嫁がせることで「外祖父」(がいそふ:母方の親戚)として政権を握るという藤原氏の手法は、藤原不比等と県犬養三千代の時代に始まったと言えます。
近年の研究では、県犬養三千代は665年(天智天皇4年)頃に誕生、679年(天武天皇8年)頃から、朝廷へ仕えたと考えられています。そして30代「敏達天皇」(びだつてんのう)の末裔「美努王」(みのおう)と結婚。
当時、朝廷で長く働いた女性は、「命婦」(みょうぶ)と呼ばれる管理職となりました。県犬養三千代は結婚したあとも命婦として仕事を続け、美努王との間に2人の男児と1人の女児を授かっています。
仕事も家庭も順調だった県犬養三千代でしたが、突然美努王と離婚し、藤原不比等と再婚。離婚及び再婚の理由や時期は分かっていませんが、これによって県犬養三千代の人生は大きく変わっていきました。
701年(大宝元年)、藤原不比等との間に「安宿媛」(あすかべひめ)を授かります。そして同年、第42代「文武天皇」(もんむてんのう)と「藤原宮子」(ふじわらのみやこ:藤原不比等と前妻との娘)との間に、「首皇子」(おびとのみこ)が生まれました。
同時期に子どもを得たということで、「阿閇皇女」(あへのひめみこ:文武天皇の母で、のちの43代元明天皇[げんめいてんのう])は、県犬養三千代を首皇子の乳人(めのと:育ての母)に任命。そのため、首皇子と安宿媛は乳兄妹(ちきょうだい:同じ女性の母乳で育った兄妹)となり、互いに意識し合う関係になったと言われます。
県犬養三千代が首皇子の乳母になったのは、職務に長けた県犬養三千代に対し、阿閇皇女が絶大な信頼を寄せていたからでした。
その証拠に、県犬養三千代は708年(和銅元年)に元明天皇(阿閇皇女)より、「橘宿禰」(たちばなのすくね)という「姓」(かばね:古代日本における称号)を賜っているほど。
しかし同時に、藤原不比等の思惑が、かかわっていたと考えられます。藤原不比等は自分の娘を文武天皇に嫁がせただけでなく、その皇子にまでも自分の子を嫁がせ、生まれた天皇の外祖父としての地位を確立しようとしたのです。
707年(慶雲4年)に文武天皇が崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)すると、幼い軽皇子に代わって、阿閇皇女が元明天皇として即位。県犬養三千代も、藤原不比等とともに元明天皇を支え続けたと考えられています。
716年(霊亀2年)に県犬養三千代が育てた、安宿媛と軽皇子が結婚。安宿媛は「光明子」(こうみょうし)を名乗ります。県犬養三千代も女官のトップとして、朝廷への影響力を強めていきました。720年(養老4年)に藤原不比等が他界。
その翌年721年(養老5年)、県犬養三千代は、人臣(臣下)として最高位となる「正三位」(しょうさんみ)に叙せられています。同年、元明天皇が危篤に陥ると、県犬養三千代は出家。
729年(天平元年)には光明子が聖武天皇の「皇后」(こうごう:天皇の正妻)となり、「光明皇后」(こうみょうこうごう)を称します。それまで従来、皇后は皇族から出す決まりでしたから、父・母ともに貴族という光明子が、皇后になるのは異例のできごと。そして、4年後の733年(天平5年)に、県犬養三千代はこの世を去りました。