【あらすじ】鎌倉幕府を打倒する計画が幕府側に察知された後醍醐天皇は、御所を脱出しようと試みる。しかし、すでに六波羅探題の軍勢に囲まれてしまっていた。後醍醐天皇とともにしていた遣使(けんし)・北野原常磐は、このような状況になってしまう数時間前の出来事に思いを馳せるのだった。
「されど、なにゆえ六波羅は日野殿や円観らをいきなり捕らえたのでしょう」
公家のひとりが口にした。
「遺憾ながら、内裏に出入りする、どなたかが密告したと考えるのが自然ですな」
千種忠顕が得意げに答えた。忠顕は公家のなかでは珍しい、学問よりも武芸を好む男だ。帝の近習では古参でもあり、随一の軍略家を自認する。狡猾で権力を嗜好する人柄で、中傷や諫言で政敵を排除したとも言われていた。
「一体、誰がそのようなことを」
「知れたこと、いまこの場に姿を見せぬ重臣がひとりおるではないか」
千種忠顕が言外に名指しするのが、吉田定房だった。かねてから吉田家の低い家柄を蔑視していただけに、この機会を利用して追い落しを謀っているのは、容易に察しがついた。
「その者が自分可愛さに帝と我らを六波羅に売り、己の身の安全を図ったのじゃ」
「なんと、そのような不埒な輩が殿中にいたとは……」
「我が身可愛さに、我らはおろか帝まで六波羅に売るとは許しがたし」
「早く言え忠顕殿。その不忠者は誰じゃ」
「もったいぶるな、早う教えるのじゃ」
気の短い公家達が、忠顕の周囲に詰め寄る。
「そうですな、迂闊にも我はまだその者の名を告げておりませなんだ。いかにもその者の名は」
「その者の名は?」
忠顕は公家達の顔を見回すと、得意げな声で言い放った。
「帝の側近中の側近、吉田定房卿にござりまする」
「愚かな。定房に限っては朕を見限るなどありえぬ」
後醍醐天皇がたまりかねた顔で口を挟んだ。吉田定房は帝にとって乳父であると同時に、側近であり、知恵袋でもあった。そんな吉田定房を疑う選択肢を、後醍醐天皇は持たないようだ。
「されど主上、定房卿がこの場に姿を見せぬのは、我らとしても腑に落ちませぬ」
「倒幕の密議にも加わらず、姿を見せないこの折りに六波羅の挙兵が伝わる。これは定房卿が密告したとしか思えませぬ」
「わらわも定房卿の疑惑、当然のものと思いまする」
公家達と一緒に、阿野廉子(あべのれんし:後醍醐天皇の後宮)も声を上げた。自らの子を次の天皇にしたい廉子にとっても、大塔宮親王を推す吉田定房は、邪魔な存在なのだろう。
「廉子、お前まで」
後醍醐天皇が呆れた表情で顔を押さえた。
「定房卿は常日頃より主上に小言ばかりでした。きっと不満を募らせ六波羅に密告したのでありましょう。ついでに大塔宮親王に譲位させるおつもりではありますまいか」
「口が過ぎるぞ。大塔宮はすでに法体となり、一度は天台座主にまで上りつめておる。我が皇子とは言え、僧侶を帝にする訳にはいかぬ」
「還俗(げんぞく)なさればその限りではありますまい。古に天武天皇の例もありますれば」
口が達者な千種忠顕に加え、阿野廉子まで相手にしては、帝も分が悪いようだ。常磐がたまりかねて口を出そうとしたそのとき、内裏に低く良く通る声が響いていった。
「やれやれ、帝をお守りする方々が、なんとも醜うございますな」
声のするほうを見ると、そこには吉田定房本人が、厳しい顔で立っていた。
「定房卿、いままでどこに」
「貴殿らの申す通り六波羅である」
詰問する公家に、吉田定房は冷たい視線を返した。
「やはり定房卿、我らを六波羅に売ったと申すか」
「結果的にはそうなるでしょうな。申し開きはいたさん」
吉田定房はあっさり認める。そのまま帝の前まで進み、その場に深くひれ伏した。
「なぜだ定房。なぜ朕を見限った」
帝は平伏する定房を悲しげに見やった。
「恐れながら、臣はむしろ主上に生き長らえていただきたく、此度はあえて逆鱗に触れるのを覚悟で六波羅に訴え出てございまする」
倒幕自体は吉田定房も賛成ではあった。だが帝と日野俊基、文観に円観が構築した計画は、あまりに杜撰すぎた。「綸旨(りんじ)を出せば必ず武士達はしたがう」という前提では、あまりにも幕府を甘く見すぎているし、その理屈が通るなら倒幕はすでに成されているはずだ。
「なるほど、定房はまだそのときではないと考えるのじゃな」
吉田定房の話を聞き終えると、帝はため息混じりに呟いた。
「恐れながら、帝が自ら兵を挙げることなく、戦いを武士任せにするので、倒幕は成し得ないと存じまする」
「ではどうする」
「まずは錦の御旗を掲げ、倒幕を宣言するのです。武士達の拠って立つところを幕府から帝に置き換えれば、倒幕は成功いたしましょう。されど、幕府はあまりに強大です。1度や2度の敗戦は覚悟しなければなりませぬ。したがって、主上がこれに負けぬ強い心を持つのが肝要かと」
「なるほどのう……」
「それにしても、六波羅がこれほどまでに性急にことを運ぶとは意外でした。これは我の落ち度であります」
「して定房卿、お話はもっともなれど、貴殿が招いたこの窮地、いかに脱するおつもりか。もちろん何かしら手立てはあるのでしょうな」
きつく問い詰めようとする千種忠顕に、吉田定房は頭を振って応えた。
「遺憾ながら、事ここに及んでは、無事に済ませる手立てなどありはせぬ」
「なんですと、ではいかにこの窮地を脱せよと言うのか」
「貴殿らは帝を奉じて裏門より脱出するのだ。すでに近習達に命じ、裏門に輿を用意させておる。いまのうちならば六波羅も兵を回しておるまい」
定房は帝へと振り返ると、頭を深く下げて言上した。
「恐れながら主上、時は臣が稼ぎますゆえ、同道される皆様方と一刻も早く落ちられますよう」
「落ちて、どこへ向かえと言うのだ」
後醍醐天皇は低い声で眼を細めた。吉田定房の真意を探っているようだ。
「まずは比叡山へ。途中、大塔宮親王が合流されます。そののちは殿下とともに、南都に赴かれませ」
南都とは、奈良の平城京を指す言葉だ。吉田定房は後醍醐天皇が御所から逃れたあとの行く先として、受け入れを東大寺と金胎寺に要請していた。
「なるほど。手立てはそれしかない訳じゃな」
「定房卿、帝の矜持を示すため、急ぎ綸旨を発して心ある武士を呼び寄せてはいかがか」
「さよう。六波羅に一太刀でも浴びせぬまま、御所を離れるというのは末代までの恥ぞ」
公家達は御所を離れたくないようだ。吉田定房はそんな彼らを冷たい顔で突き放した。
「間に合いませぬな」
「何故そう言いきれる」
「綸旨を発したところで、誰が明朝の襲撃に間に合いましょう。御所で幕府に捕まるより、他の地で志を同じくする者を募るべきと愚考いたしまする」
「確かに、定房の申すほうが朕らしい」
後醍醐天皇は納得したようだ。一時は京を離れたとしても、また取り返せば済む話だ。還御(かんぎょ:天皇が出先から帰ること)がいかなる形であったとしても、最後に勝利するまで後醍醐天皇が倒幕を諦めることはないだろう。
「ところで、定房はどうするのじゃ。朕とともに都より落ちるか」
「臣はこの場に残ります」
「なぜじゃ」
「六波羅の先触れをこの場にとどめ、わずかでも時を稼ぎます。臣ができる償いはそれくらいにございます。仮に臣とともにこの場に残る方がおられるならば、幕府に恭順するものとして処罰を受けぬよう取り計らいます」
「そうか……」
結局、すべての公家達が帝を奉じて御所を出る運びとなった。千種忠顕や阿野廉子をはじめとする数人の側近は、部屋を出る際、吉田定房に心ない声を浴びせていく。
やがて広い部屋に後醍醐天皇と吉田定房、北野原常磐の3人が残った。後醍醐天皇は記憶に焼き付けるように御所の内部を見回すと、最後に吉田定房の肩を軽く叩いた。
「定房、朕は必ず京に生きて戻るぞ。例え草を噛み、泥水を啜っても、必ずこの場に帰ってこよう」
「この定房、主上のお帰りをいつまでもお待ちしております」
そこで吉田定房は、後醍醐天皇に『闇の者』の脅威を伝えた。人の世にあって人の理の通じぬ者だけに、人を体現する後醍醐天皇は『闇の者』にとって排除する対象でしかない。吉田定房はかねてから遣使(けんし)とよしみを通じており、後醍醐天皇の側近でいち早く『闇の者』を危険な存在と認識していた。後醍醐天皇はそれを聞かされていたが、いまいち実感が伴わないようだ。
「主上、北野原常磐の側から決して離れませぬよう」
吉田定房が、後醍醐天皇の目を見据えて言った。
「この者は女性ではありますが、『闇の者』を察知する能力を持ちますゆえ、必ずお役に立ちましょう」
「分かった。そちの忠告に従おう。常磐は此度の一件が落ち着くまで、我が手元に置くとする」
「お聞き届けいただき、ありがとうございまする」
「ときに定房よ、ひとつ腑に落ちぬ件があるのだが」
後醍醐天皇がいぶかしげな顔で口にした。
「なぜ『闇の者』は朕の命を奪おうとするのか」
「簡単でございます。主上はのちの世に偉大な功績を残す御方。それは日の本に災いをもたらさんとする彼らにとって、大きな不都合となるのでしょう。いずれ大きな力を持つ前に排除しようとするのは、彼らの理屈からすると至極当然かと」
「そうか、朕は後世に偉大な業績を残すのか」
滅多に笑わない後醍醐天皇と吉田定房の顔に、やわらかな笑みが浮いた。
「なれば、なおさら此度のごとき些事で命を落とす訳にはいかんのう」
「お急ぎを。とにかく大塔宮親王と合流するのです」
促す吉田定房に帝が告げた。
「定房よ、死ぬでないぞ。朕が思い描く政治には定房が必要じゃ。例え朕の意志に反そうとも、誠の忠義を尽くす男がな」
1度行動を起こした後醍醐天皇は大胆だった。素早く直垂(ひたたれ)を脱ぎ捨てると、近習達に女装の手はずを命じたのだ。
「朕はあらゆる手段を用いてこの窮地を脱する。まさか異論はあるまいな」
反対する公家達を威圧すると、帝は輿に乗り御所からの進発を指示した。公家達も重い足取りであとに続く。これから長く続く道のりを思えば、公家達が暗澹たる気分になるのも分かる。
だが、まさか裏門から出た途端、六波羅の軍勢が待ち受けているとは思わなかった――。